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2010年6月19日 (土)

ナニが表現なのか

こと、資本主義下の表現(者)においては、その表現が経済学的に「交換価値」(つまり換金されてしまうということだ)を持ってしまうのは、本質的なことだ。ここで表現(者)としての、姿勢や、信条、倫理や心情は行くも帰るも地獄でしかナイゆえ、作り笑いを強いられる。そうして、けっきょくのところ、世間に対して見栄をきったり、威張ったり出来るのは、世界各国のいくつかに豪邸や別荘を持っているとか、金銀宝石を身につけているとか、成り金と寸分違わぬ部分ということになる。正直にいうと、私は、物書きになれなかったら、狙撃銃をマスターして、本気で殺し屋になろうと思っていた。もし、日本がアメリカのような銃社会であったなら、そうしていたかも知れない。アトは、ふつうに生活者として生きていればそれでイイ。では、何故、表現などというものに足を突っ込んだのか。ヘーゲルの[有論]によると、人間が頭の中に思い浮かべる事(事象)を「表象」というが、この表象というものと、外部環境の現象を一致させたいというのは、人間の持っている[衝動]だ、ということになっている。もちろん、そんなことは出来そうにナイことなので、ここに表現という方法なり手段なりが生まれる。簡単にいえば、表象を表現して、現象させたいという衝動が人間には存在する、のだ。とりあえず、これを信用することにして、話をすすめれば、言語は、その一つの手段だ。さらに、言語と身体によって構築され表現される演劇は、表象のかっこうの環境世界に対する衝動の実現(現実性)ということになる。(この[衝動]がどこから来るのか、という問題については、私なりに、この欄の『劇、それ自体』で展開してある)。本来は世間(資本社会)において、表現など何の役にも立たないという絶望が、paradoxとして、唯一、資本社会から、常にあるstanceを持っているという、表現者なら誰でもが潜在的に直感している希望となって、表現の持続をかろうじて支えている。表現者としての貌と、生活者としての顔を、ヤヌスの鏡のように持ち得ているあいだは、ヘーゲルの哲学は知らねども、導き出されている[衝動]のほうは、まだ頼りに出来るように思う。

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