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2010年6月22日 (火)

おコトバではありますが・2

話を簡単にするために、ウィトゲンシュタインの言語学がなぜダメなのかを、のっけから横道にそれて、いってしまうと、この「AはBである」がいえそうでいえないからだ。つまり、ウィトゲンシュタインのいうように、コトバにはそれに対応する対象が世界にあるから(一対一対応)成立をみる、として「私は私である」といえるかというと、それは出来ないのだ。「私」というコトバが対応する「私」というものがナイからというワケではなく、「私」は思惟された数だけ存在するので、一対一対応している存在ではなく、また、言語ゲーム論にそれを当てはめても、ある者が「私」といったとき、のルールは、まったく不可能になってしまう。(このときの「私」は、そういった彼自身のことかも知れないし、彼がそう信じている(信憑性による)「私」であるかも知れないし、たぶん、こう観られているいるだろう「私」かも知れないし、過去の「私」かも知れないし、未来の「私」かも知れないし、相手のことを指して・・・相手の気持ちになって・・・「私」といっているのかも知れない)。これは、「対象」というものが、「私という、それ自体」になったために生じてくる本質的なparadoxだ。カントによれば、「AはBである」というとき、Aという直感的な理解を、カテゴリー(概念)に分析して理解することがBだ。たとえば、イヌをみて、それが動物であり、哺乳類であり、四足歩行をするものであり、と、演繹的に概念を深めていって、イヌという普遍性をつくることになる。この対象が「私」以外の場合は、それでカタがつく。のだが、こと「私」というものを「対象」にした場合、常に「直感されている私」と、「対象として認識されている私」とに引き裂かれることになる。つまり、どうしても、「私自体」というものを正確にいい当てることは出来ない。つまり、カントにおいての「私」というのは、そういう存在なのだ。これは、実に真っ当なことのように思える。プラトンやアリストテレスの形而上学的な「私」からみれば、その存在を合理的に説明している。ある理論物理学者が、量子力学をして、「やっと、物理学もカントまできた」と皮肉をこめて類推したのも頷ける。(この物理学者はもちろん、不確定性原理のことをいっている)。現象学のフッサールは、この「私自体」という客観を転換してみせた。現象学的還元という方法だが、たしかに「方法論的」に、「私自体」という客観をまずエポケー(括弧にくくって)、とりあえず、それぞれが考えるところの「私」というものを吟味していくことから出発した。「私」など、それを考える(思惟する)者の数だけあって構わないではないか、というのだ。事実、実際にそうなのだから。そこで、客観をどうやって決定するかについては、各々のドクサ(このドクサは、パラドクスの「ドクス」に該当する。パラ(Para)は反対のという意味。よって「ドクサ」は思考なのだが、フッサール現象学では、「思い込み」という、やや強い意味に用いられている)を持ち寄って(論議しあって)マチガイやズレを訂正しつつ、各々が納得のいく妥当なものを「客観」とすればイイ、という、なんだか狐につままれているような考えだが、まったく形而上学を離脱した、現実的な思想だ。これは、違うコトバでいうならば、共通の規範、普遍性を持つということになる。(アトでまた論じるが、この方法は、ソシュール言語学における、パロールからラングへの道程に似ている)。さて、のちのち、さまざまな批判にさらされるヘーゲルだが、ヘーゲルは、このカントの提出した「私自体」について、実にみごとな論理でもって答えている。

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