この夜郎
郵政なんとか法だか、知らないが、現政治情況における「夜郎」というのが国民新党だということはこれでいきなりではなくても、鮮明になった。プチ・ファシストの小泉政権によって、この国は、政治で動かせるものだという妄想、錯誤を政治家たちが持ったがために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、引っかき回されているのは国民、庶民大衆で、政治的誤算が、ここまで生活(いや、もう人生といってもイイ)を左右するとは、日々の暮らしをやりくりしている私たちも思わなかったからだ。そのうえ、テレビで向こう受けすることを喋りくって、てめえは何億円もする豪邸に住んで、さらにマスコミまで牛耳っているやからが、「庶民は」というコトバを口にすると、辟易してしまう。こないだは、さる番組に、『けんかえれじい』(鈴木清順・監督)のヒロインを嫁にかっさらっていった、元タレントが、デカイ面をさらにデカクして、政治について大きな口を叩いているのをつい、観てしまって反吐が出そうになった。この連中も、間違いなく「夜郎」なのだ。こういうことをいうと、貧乏人の愚痴や繰り言、嫉妬にしか聞こえないだろうが、そうして「稼いで何が悪い」といわれても、「悪いことはありませんね」としか他に答もナイのだが、どうしても、こういう連中は、また日本が戦争でもおっぱじめようなら、口を揃えて、それに加担するに違いないのだ。それは、この連中が悪人だからではナイ。むしろ、善人かも知れぬ。善人は、何も戦争に反対するだけではナイ。善人であるからこそ、過去の戦争において加担するしかなかった例を、intelligentsiya、芸術家等々に、私たちは、多く知っている。現在、日本の宗教団体で、その信者が最も多いのは、神道だが、2位は「幸福の科学」である(週間ダイヤモンド2009・9・12による調査結果)。こういう時代(こういうというのは、要するに、何事も信用のおけそうにナイというこういう、だが)政治も科学も、私たちをいったい何処に連れていこうとしているのかワカラナイ時代、必ず天国、極楽に連れていってあげますよ、というのが、イチバン強いのは、いうまでもナイ。かつて親鸞もまた、庶民困窮の時代にあって、そういわざるを得なかったのだから。と、こんなことをほざいている、私自身もまた「夜郎」の部類なのかも知れないなという、自問と自省はあるが、少なくとも、自分のいっていることは半分も当たってはイマセンという自信がアルのだ。ここだけが「夜郎」に陥らないで踏みとどまっていられる私の原理原則だといってイイ。この半可通ならぬ、三分の一可通でいると、残りの三分の二に、「夜郎」ではナイものを入れることが出来るから、うまくしたもんだ。つまり、残りの三分の二のことが掴みやすくなるのだ。これは全可通(自分のいうことが真理だと信じ込んでいる者、即ち「夜郎」)には出来ないことだ。三分の一の学問と経験、そうして三分の二の好奇心で、この時代の「夜郎」たちと、闘っていくしか、私のドラマツルギーというものは、ナイ。
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