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2010年6月 9日 (水)

数式と漢字

思想・哲学などに関する書籍を読むと、たいてい1ページに最低でもひとつか二つは読めない漢字が登場する。入試以外で漢字の勉強をしたという記憶のナイ私の場合は、娯楽小説を読んでみたところで、同様のめにあう。どうしても素通りできない場合は漢和辞典のお世話になるが、たいていはワカラナイけど、だいたいでいいやとスルーしてしまう。このほど、常用漢字(かつては当用漢字といったはずだ)が100文字以上増えた。そこで、教育現場ではこれを教えるのに戸惑いの色を隠せない(という新聞の見出しが多いから、そう書いておくが)のだそうだ。教育現場というものが、どういう現場なのか、あまりよく知らないが、そういう戸惑いくらいは持ってもらいたいものだ。習ったこっちは、戸惑ったというよりも、まるっとおぼえなければ、しょうがなかったんだから。漢字がいつ成立したのかは判明していない(いろんな説はあるようだが)。しかし、もともとは象形的なものであったということはワカッテいる。画数の多い漢字も、そこからの部分ごとの意味の組み立てであるということも。だから、鬱病の「鬱」という漢字をなぜ、そう書くのかはワカッテいるのだ。つまり漢字のある属性は、なんらかのカタチを普遍的な意味として形態化させたものだ。だから、一文字で「概念」を表すことも出来る。(カントなんて読んでるもんだから、最近、この欄では概念というコトバが多く使われるようになった、のよ)。[国家]や[宇宙]などはそういう部類だと思っていい。また[価値]や[法則]といった漢字は、さらに、超感性的な「概念」や「意味」も扱うことになる。その各々が、偏や旁(つくり)から成っているところから、これを分別して漢字の持つ構造を教えていけば、その漢字の意味や概念を考えながら学ぶことも出来る。「鬱」というごちゃごちゃした漢字にしても、分類、分解していけば、なぜ、鬱は鬱と書くのかが、ワカルはずだ。なんで、教育現場という現場は、そうしないのか、わかんねえ。私たち表現者にとって面倒なのは、たとえば「美」という漢字を用いて、何を表現したいのか、「一生」という熟語で、何を表現したいのかが、表現した者の数だけあることで、これは、その漢字の前後関係を読み込んでいかなければ、容易に追体験出来ないし、追体験もまた、そうする者の数だけあるということだ。ところが、数学の数式(自体)は、普遍性しか持たない。数式は数字と記号の羅列なのだが、日本人がみても、アメリカ人がみても、同じ関数は同じ関数だし、方程式が同じなら、同じことが書かれている方程式だ。ここから、数学というものは、客観そのものなのではナイのかという迷信が生まれる。普遍と客観は違う。たとえば、ゼロ(0)というものや無限(∞)は、a prioriなもののように思えるが、空間や時間などと違って(空間も時間もアインシュタインの登場以降、そうではなくなったが)、実際に存在するのかどうか決められない。虚数(複素数)もそうだ。しかし、それらがナイと、現代数学は成立しない。理論物理学、量子力学とて、存在出来ない。とはいえだ、ゼロ(無)とか、無限とか、をいうまでもなく、「関数」とか、「指数」とか、もっと簡単な「集合」ですら、漢字であるのに、一見して意味のワカルものはナイ。たとえば「関数」は、何かが何かと「関係してんじゃねえの。三角関数は、男女の三角関係と関係あんのかね」くらいしかワカラナイ。「指数」は「指の数だから10本で数えられる数のこと」だし、「集合」は、場所とか、時間のことだろ。つまり、数学(数式)のワカリニクサというのは殆ど、この熟語漢字のせいである。私は戯曲の書き方を教えるのに「位相幾何学」を使ったりするが、この漢字をホワイトボードに書くだけで、塾生のどん引きがワカル。漢字も数式も、一度使い慣れると、たとえ書けなくても、計算(algorithm)が出来なくても、わりと便利なものなんだけど、そういう便利なものは、教育現場で戸惑わずに(戸惑ってもいいけどさ)教えてもらいたいと思う。

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