戯曲(劇)言語について
ふつう、戯曲には、二種類の文体が用いられる。ト書きとして使われる「散文体」と、登場人物が語る「話体」だ。ところで、双方に共通していえる、他の散文(小説・論文・エッセー)との大きな違いは、文章に[省略]が多いということだ。たとえば、書き出しのト書きを次のように書くと、
風が吹いている。鳥が飛んだ。
散文(小説など)と同じだが、戯曲では、
風、吹いている。鳥、飛ぶ。
というふうにト書きを、ある[省略]のカタチで書くことが出来る。この場合に省略されているのは「助詞」だ。同様に「格助詞」も省略されることがある。(「涙、こぼれる」、「二時、開演となる」)何が「助詞」で、何が「格助詞」か、ここに「抽象名詞」や「助動詞」が加わってくると、もう頭がクルクルするので、書いてるぶんには、あんまし、気にせんでええ。ただし、「私、北村想です」と書かれた場合、この省略が「私は北村想です」と「私が北村想です」では、異なってくる、くらいはおぼえておいていい。では、何が異なってくるのか。コトバは一方通行ではナイ。それが独り言の場合でもそうだ。必ず、いう側と聞く側の存在がある。そういうことを、言語学において、初めて取り上げたのが、時枝誠記という言語学者で、ソシュールの機能言語学の批判として、これを言語過程説という。(詳細について、この程度のことはGoogleで調べられるので、やってくれ)。つづめて解説すれば、ソシュールが、言語というのをラングとパロールとに分けて、世間で会話の中から生み出される、数々のコトバ(パロール)が、ラングという(規範)になっていくとして、言語を一つの機能とみなしたのに対して、時枝(過程説)は、まず、ある認識があり、次にそれが概念となり、それが表現としての形態となっていく過程を言語過程としたのだ。つまり、いう側の認識⇒概念⇒表現(書きコトバ=文字、話しコトバ=発話)を、逆にたどっていくことにより、いう側の認識に到達して、いう側が何をいいたいのかを認識するということで、コトバ(パロール)がソシュールの言語学のように、常にラングに帰納して、了解されるというワケではナイ、ということをいったワケだ。学者などには、ソシュール言語学が好まれているようだが、表現者には、時枝(をさらに唯物弁証法でとらえ直した、三浦つとむ言語学)のほうが、真っ当に思える。(数学者、アチャラカ哲学者は、ウィトゲンシュタインや、チョムスキー文法をお好みのようですが)。ところで、平田オリザ氏が、「コミュニケーション」というのを重要視しているのだが、彼のいうところ、ある者が、ちゃぶ台といい、ある者が同じものをテーブルという、コトバのすれ違いは、communicationを通して、概念の了解から(極端にいうと、チャーブルといってもいいことになっちゃうんだけど)、彼のEpigonenが、彼の戯曲の書き方の真似をして、ト書きで「去りつついう」「相手のコトバにやや重なるようにいう」と書けばイイものを、▲マークをせりふの頭に付けたり、◎マークにしたり、そういうことが流行ったんだけど、communicationを通して、いったい、戯曲(劇)言語をどうしたいのかは、まだ、私の中で咀嚼されていない。付記するなら、『劇場法』も、初動コミュニケーションが失敗したんと、ちゃいまっか。
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