無料ブログはココログ
フォト

« おコトバではありますが・4 | トップページ | おコトバではありますが・6 »

2010年6月30日 (水)

おコトバではありますが・5(改稿)

フッサール現象学については、何回か扱ってきた。ここでは、「対象」と[意識]の関係をもっぺん、アトあと、必要になってくるであろうカタチでとりあげておく。いつも同じ手法ではつまんないだろうから、卑近なところから題材をみつけて、「恋愛」における対象と意識についてやってみる。私がまだ青少年の頃、フォークソングの時代(70年代歌謡つうんだろうか、最近では、原由子さんの新曲『京都物語』がそのテイストなんだが、発想がうまいなあ、クワタケースケさん)に、トワ・エ・モワが『ある日突然』てのを歌ってヒットさせた。ただの友達が恋に目覚めてしまうという内容で、おおいに十代の私たちをくすぐった。恋愛においては、男女(べつに同性でもイイのだが)が、それぞれ対象となり、それぞれがそれを認識する意識となる。相対するワケで、これを理論化したのを相対性理論という(な、ワケはナイ)。このとき、恋愛につきものなのが「恋の悩み」というもので、たいてい、悩んじゃうのだ。ナニに悩むのかというと、「彼(彼女)の気持ちがワカラナイ」という、ま、それだけのものだ。これは、片思いのあたりもそうだし、相思相愛になってもそうだし、恋愛初期もそうだし、別れ際もそうだ。で、たいていが別れるときには「あなたは変わってしまった」と互いにいうのだ。もちろん、これをヘーゲル的に考えれば、変わってしまったのは、「あなた」ではなく、「私」の意識だ。何故なら、「あなた」という対象は、すでに「私」の[意識]だからだ。こういう意識を、前述した(と思うが、別の欄かも知れない)「ドクサ(思い込み」と、フッサール現象学は説く。フッサールは、意識をまず「独我論」的に扱うからだ。(方法論的独我論-客観は還元される)。つまり、ヘーゲルとは違って、フッサールは、[意識-主観]を対象に対する単なる思い込みに過ぎないと、論じたのだ。この論理を端的に述べたコトバがある。『確実なのは、「あるものはある」とも「ない」ともいえないことである』(「笠井潔『超越論と外部経験」・シコウシテ21号)これを、いいなおせば、「確実なのは不確実なことだ」ということになってしまう。これは、矛盾(逆説-paradox)だ。・・・恋愛というものは、たしかにそんなふうなのだが、「好きなこと」はマチガイなく、ココロはそういうふうに動くし、つまり、そういうふうに思考(意識)している私は、在るのだが、その対象である、「ある」とも「ない」ともいえない不確実性な確実を保証するものは、信憑性(信頼という関係)でしかナイ。ところで、この循環、というか、変遷は、どこからやってくるのだろう。ここで、次の章に移るタイセツなpointが登場する。それは「時間(性)」である。『確実なのは~不確実なものだ』という矛盾=逆説(paradox)は、刻々と移りゆく「時間」の中に現れては消えていく、量子のようなものだ。矛盾は、弁証法の、大きな要素だから、ヘーゲルによる意識の運動=観念論弁証法も、この「時間」の介入なしには、おそらく語れない。そこで、やっと「表現論」としての劇言語が、登場する。

« おコトバではありますが・4 | トップページ | おコトバではありますが・6 »

演劇」カテゴリの記事

哲学」カテゴリの記事

表現とコトバ」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: おコトバではありますが・5(改稿):

« おコトバではありますが・4 | トップページ | おコトバではありますが・6 »