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2010年6月18日 (金)

戯曲(劇)言語について・続

時枝誠記文法(言語過程説)や、三浦つとむ言語学が戯曲(書かれた劇)に有効(向いている)のは、「詞」と「辞」によって、コトバに、それを発する主体を付与し、[表現]として言語をとらえたという理由による。てなことをいうと、なんだか難しいこと、またいってやがるになるので、簡単にいってしまう。「詞」というのは、たとえば、「花」という名詞だと思えばいい。ここには、「花」という意味が現されている。ソシュール言語学では、言語の意味は対象を持たないので(つまり、「花」をべつに「ナナ」と称しても、とりあえずの差し支えはナイ)「花」という文字なり発音があって、それに対しての「物」が存在すれば、それでいい。だから、日本では「イヌ」といい、アメリカでは「dog」という動物が、存在すればそれでイイ。そこに、ある共通の意味、用法、文法(ラング)が出来上がれば、「キモイ」といういまふうのコトバも(こういうのをパロールというのだが)、意味することが同じであれば、それが言語なのだ。「キモイ」と「バチャル」の違いというのは、そこに「差異」があるからということになる。(箸とフォークとの違いのように)これはこれで、言語というものが、その時代に普遍性を持つもの(ソシュール言語学では共時制という)と、時代を経ても存在(同じく、通時制という)していくものに分別されていくという歴史観を獲得することも出来る。(フーコーのいう言説・・・ディスクールというのは、その時代の言語パラダイムのことだ)。・・・ところで、「花だ」、というコトバを゙どう解釈すべきか。この「だ」は形容動詞である。私たちが学校で学ばされた文法によると「活用」があって、「だろう」「で」「「な」「なら」と変化する。ここでどうして「な」「なら」が出てくるのかは、「花だ」は「花なり」でと同じで、連体形と仮定形で「花な」「花なら」と変化するからだが、時枝(過程説)では、この「だ」に、そのコトバを語る(書く)主体を置く。(三浦言語学では、この過程のすべてを言語であるというのは誤りで、言語というのは、書かれた文字、発せられたコトバ自体のみである)。この「だ」を「辞」と称する。私たちが、戯曲(劇)を書く場合、必ず「それを発する主体」を 念頭に置くので、ソシュール言語学の形式的、機能的、構造的な考え方よりも、時枝-三浦文法のほうが受け入れられやすい。たとえば、「困った(よ)」と、「そうなのか(よ)」の「よ」は、コトバのベクトルがあきらかに違う。前者は、主体の状態を表現して、副詞として用いられているが、後者は、「そうな(の・か・よ)と、相手に向けての幾重もの疑問の強調で、「そう(な)」でも、終えることが出来るものだ。だから、劇作家は、ここで、「そう」「そうな」「そうなの」「そうなのか」「そうなのかよ」と、五つも選択枝を得ることが出来る。これをソシュールに置換すると、それぞれに対応する「物」か、「差異」によって解釈しなくてはならない。一見、それでも解釈出来そうだが、意味がすべて同じなので、ただ、同じこと、としかいえないことになる。(箸の長さの差異じゃナイのかというのは、量の問題で、質の問題ではナイから、意味としての解釈にはならない)。これが、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論になると、喫茶店で、「ホット」というのも「ホットを」というのも、「ホットだ」というのも、ルールに反していなければ(ホットというのが、温かいコーヒーであるというルール)解釈の違いは生じない。つまり、主体が消えて、コトバとルールだけが残ることになる。すると「花だ」すら、解釈出来ないことになる。(それが花であるという解釈以外の解釈はナイということになる)。ソシュール言語学から「差異」を消去したようなものだ。

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