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2010年6月

2010年6月30日 (水)

おコトバではありますが・5(改稿)

フッサール現象学については、何回か扱ってきた。ここでは、「対象」と[意識]の関係をもっぺん、アトあと、必要になってくるであろうカタチでとりあげておく。いつも同じ手法ではつまんないだろうから、卑近なところから題材をみつけて、「恋愛」における対象と意識についてやってみる。私がまだ青少年の頃、フォークソングの時代(70年代歌謡つうんだろうか、最近では、原由子さんの新曲『京都物語』がそのテイストなんだが、発想がうまいなあ、クワタケースケさん)に、トワ・エ・モワが『ある日突然』てのを歌ってヒットさせた。ただの友達が恋に目覚めてしまうという内容で、おおいに十代の私たちをくすぐった。恋愛においては、男女(べつに同性でもイイのだが)が、それぞれ対象となり、それぞれがそれを認識する意識となる。相対するワケで、これを理論化したのを相対性理論という(な、ワケはナイ)。このとき、恋愛につきものなのが「恋の悩み」というもので、たいてい、悩んじゃうのだ。ナニに悩むのかというと、「彼(彼女)の気持ちがワカラナイ」という、ま、それだけのものだ。これは、片思いのあたりもそうだし、相思相愛になってもそうだし、恋愛初期もそうだし、別れ際もそうだ。で、たいていが別れるときには「あなたは変わってしまった」と互いにいうのだ。もちろん、これをヘーゲル的に考えれば、変わってしまったのは、「あなた」ではなく、「私」の意識だ。何故なら、「あなた」という対象は、すでに「私」の[意識]だからだ。こういう意識を、前述した(と思うが、別の欄かも知れない)「ドクサ(思い込み」と、フッサール現象学は説く。フッサールは、意識をまず「独我論」的に扱うからだ。(方法論的独我論-客観は還元される)。つまり、ヘーゲルとは違って、フッサールは、[意識-主観]を対象に対する単なる思い込みに過ぎないと、論じたのだ。この論理を端的に述べたコトバがある。『確実なのは、「あるものはある」とも「ない」ともいえないことである』(「笠井潔『超越論と外部経験」・シコウシテ21号)これを、いいなおせば、「確実なのは不確実なことだ」ということになってしまう。これは、矛盾(逆説-paradox)だ。・・・恋愛というものは、たしかにそんなふうなのだが、「好きなこと」はマチガイなく、ココロはそういうふうに動くし、つまり、そういうふうに思考(意識)している私は、在るのだが、その対象である、「ある」とも「ない」ともいえない不確実性な確実を保証するものは、信憑性(信頼という関係)でしかナイ。ところで、この循環、というか、変遷は、どこからやってくるのだろう。ここで、次の章に移るタイセツなpointが登場する。それは「時間(性)」である。『確実なのは~不確実なものだ』という矛盾=逆説(paradox)は、刻々と移りゆく「時間」の中に現れては消えていく、量子のようなものだ。矛盾は、弁証法の、大きな要素だから、ヘーゲルによる意識の運動=観念論弁証法も、この「時間」の介入なしには、おそらく語れない。そこで、やっと「表現論」としての劇言語が、登場する。

おコトバではありますが・4

「AはBである」という命題にもどる。前述したように、突き詰めれば哲学の課題はここにいきつくだけだ。アルベール・カミュは「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」(『シーシュポスの神話』)で述べているが、それは、文学の課題のように思える。私たちは、この「AはBである」という命題に、劇言語をもって斬り込んでいこうとしている。・・・ヘーゲルは、『精神現象学』において、カントの「仮象」を次のような論理で超えていく。たとえていってみる。いま、目の前に水の入ったコップ(グラス)がある。私はそれを観ている。観察している。観測している。つまり、コップは「対象」であり、観ている私は、それを観ている主体だ。カントにおいては、このコップの「概念」を求めていく。「透明である、ガラスである、器である」といったふうに。そうすると「コップ(グラス)は、透明なガラスの器で水を入れることができる」という命題が出来上がる。ここでは、主体と対象は別々のものだ。主体の[意識]がコップという対象を概念化している。ところが、ヘーゲルは、この[意識]に「運動」を与える。どういうことかというと、意識はすでにコップというものを捉えた状態にあるので、コップという対象は、意識の中に繰り込まれる。そうすると、命題がこう変化(転換)される。「Aは(AはBである)である」。「コップは(コップはコップである)である」。つまり、コップはもはや「対象」ではなく、[意識]そのものとして扱われることになる。そこで、「私は私である」という、対象に「私」(カントでは直感的な私それ自体と、私それ自体を認識している私だった)を導入すると、どうなるか。「私」という対象存在も、[意識]の中に繰り込まれるので、「私」は「私という意識」になる。これを命題で書くと「私は(私は私である)である」だ。つまり、ここにおいて、対象はすべて[意識]のうちに扱われることになる。そうすると、この意識(自己意識)を探求、展開、していけば、私というものが何であるのかが、客観としてワカッテくる、というlogicだ。逆に、対象はすべて[意識]と看做すことが出来るので、この世界を、一つの意識として扱うことが出来る。同様に、この世界の客観も意識の中で取り沙汰される。これが「観念論」というシロモノだ。従って、ヘーゲルの哲学は、その道程、指針をとることになる。で、[意識]というものは、取り出してみせることの出来ないものだから、「形而上学」というワケだ。・・・さて、同じ『現象学』でも、フッサールの考え方は、ヘーゲルほど楽観的ではナイ。デカルトと同様、その[意識]を疑うのだ。

2010年6月22日 (火)

おコトバではありますが・3

のっけにまた余談になるが、ロシア、革命の父レーニンは、マルクスを学んだアトで、マルクスに影響を与えたヘーゲルの弁証法を学ぶために、図書館通いをして、ヘーゲルを学問している。これくらいの努力があってのレーニンなのだ。(あたしゃ、その10000分の1にも及びませんがネ)。「革命に必要なのは軍事力だ」などとほざいた毛沢東をいつまでも同志なんて呼んでる党派が未だに、日本の政党には残っているけど(私は、この党派によって書かれたスターリン賛美の本なら、高校生のときに図書館で読みましたが)、いっちょ、軍事力でもって、革命でもやったらどうだ。・・・与太をとばすのはここまでで、ヘーゲル『精神現象学』をチラっとみていく。「緒論」において、すぐさま、哲学の問題と、この学が如何なるものかが展開されている。ヘーゲルはここで、カントの「物自体」という発想を、認識と認識される対象との間にある境界、憂慮、として、認識をなんらかの「手段」や「道具」と考えている限り、「対象そのもの」には到達できないという議論にゆきつく、と批判する。それは、「認識」と「観察主体であるわれわれ」を切り離して、認識を道具や媒体という「表象」としたうえで、一方に「対象」を置くという誤謬なのだ、というのだ。(ヘーゲルは、「われわれ」という人称で論文をすすめるが、これは、ヘーゲル-マルクス学徒でもある吉本隆明さんが「わたしたち」という人称で論文を書くスタイルに、少なからず影響を与えたのだと思われる)。ヘーゲルはまた、いう。「ある学が己れこそ[真]であると断言しても、他の学もまた同じようにそう断言することの権利がある」と。これをヘーゲルは「仮象」と称している。(この論理もまた、吉本さんの[関係の絶対性]の概念を産み出した『マチウ書試論』に受け継がれているとみていいような気がする)。ところで、ヘーゲルは、「懐疑主義」について、「ある認識がそうではなかったという経験が繰り返されると、懐疑主義に陥りやすいが、この「否定」を「限定された否定」として受け取るなら、この否定のうちに「移行」という進展が生じて、新しい事態への展開の道が開ける」と、ヘーゲル、マルクスなどの「歴史主義」を熾烈に批判した、カール・ポパーの「反証主義・反証法」(このあたりは、科学哲学宗派の金玉なのだが)を擁護する論述まで提出している。(たぶん、ポパーは、読んでナイか、マチガッテ読んだかなんだろうけど)。・・・さて、「緒論」は、すでに緒論において、学の核心に迫っていく。「人間の[意識]は、つねに、自分の存在を対象化できる(してしまう)という本質を持っている」とくる。これはいうなれば、「私」は「私」を「対象」として扱ってしまう、ということであり、このあたりは、カントの「物自体」という「仮象」の難問を解くカギとなるだけでなく、後年のハイデガーやサルトルの実存主義哲学における「現存在」「実存」を予感させるところだ。・・・ここから、ヘーゲルが、どういう方法(思考・理論)で、「仮象」を退けたか、そうして、ポスト構造主義のジャック・デリダのいうヘーゲル批判への疑問、さらに、「脱構築」(オモシロイんだけどネ、これ)や、形而上学批判への疑問を、劇言語から扱ってみるつもりだが、我が輩は、明日からまた旅寝の空で、しばし開店休業になる。まあ、ハンカチョーの「とんでも本」でも読んでるつもりで、読んでくれてりゃイイ。

おコトバではありますが・2

話を簡単にするために、ウィトゲンシュタインの言語学がなぜダメなのかを、のっけから横道にそれて、いってしまうと、この「AはBである」がいえそうでいえないからだ。つまり、ウィトゲンシュタインのいうように、コトバにはそれに対応する対象が世界にあるから(一対一対応)成立をみる、として「私は私である」といえるかというと、それは出来ないのだ。「私」というコトバが対応する「私」というものがナイからというワケではなく、「私」は思惟された数だけ存在するので、一対一対応している存在ではなく、また、言語ゲーム論にそれを当てはめても、ある者が「私」といったとき、のルールは、まったく不可能になってしまう。(このときの「私」は、そういった彼自身のことかも知れないし、彼がそう信じている(信憑性による)「私」であるかも知れないし、たぶん、こう観られているいるだろう「私」かも知れないし、過去の「私」かも知れないし、未来の「私」かも知れないし、相手のことを指して・・・相手の気持ちになって・・・「私」といっているのかも知れない)。これは、「対象」というものが、「私という、それ自体」になったために生じてくる本質的なparadoxだ。カントによれば、「AはBである」というとき、Aという直感的な理解を、カテゴリー(概念)に分析して理解することがBだ。たとえば、イヌをみて、それが動物であり、哺乳類であり、四足歩行をするものであり、と、演繹的に概念を深めていって、イヌという普遍性をつくることになる。この対象が「私」以外の場合は、それでカタがつく。のだが、こと「私」というものを「対象」にした場合、常に「直感されている私」と、「対象として認識されている私」とに引き裂かれることになる。つまり、どうしても、「私自体」というものを正確にいい当てることは出来ない。つまり、カントにおいての「私」というのは、そういう存在なのだ。これは、実に真っ当なことのように思える。プラトンやアリストテレスの形而上学的な「私」からみれば、その存在を合理的に説明している。ある理論物理学者が、量子力学をして、「やっと、物理学もカントまできた」と皮肉をこめて類推したのも頷ける。(この物理学者はもちろん、不確定性原理のことをいっている)。現象学のフッサールは、この「私自体」という客観を転換してみせた。現象学的還元という方法だが、たしかに「方法論的」に、「私自体」という客観をまずエポケー(括弧にくくって)、とりあえず、それぞれが考えるところの「私」というものを吟味していくことから出発した。「私」など、それを考える(思惟する)者の数だけあって構わないではないか、というのだ。事実、実際にそうなのだから。そこで、客観をどうやって決定するかについては、各々のドクサ(このドクサは、パラドクスの「ドクス」に該当する。パラ(Para)は反対のという意味。よって「ドクサ」は思考なのだが、フッサール現象学では、「思い込み」という、やや強い意味に用いられている)を持ち寄って(論議しあって)マチガイやズレを訂正しつつ、各々が納得のいく妥当なものを「客観」とすればイイ、という、なんだか狐につままれているような考えだが、まったく形而上学を離脱した、現実的な思想だ。これは、違うコトバでいうならば、共通の規範、普遍性を持つということになる。(アトでまた論じるが、この方法は、ソシュール言語学における、パロールからラングへの道程に似ている)。さて、のちのち、さまざまな批判にさらされるヘーゲルだが、ヘーゲルは、このカントの提出した「私自体」について、実にみごとな論理でもって答えている。

おコトバではありますが・1

さんざんに散らかった脳味噌(思考)をピースとして、ジグソーパズルを組み立てていくことになる。当初はタイトルを『形而上学の物語』とでもするかと思ったが、ハッタリが強すぎるので、ここは謙虚に、半可通(ほんとは三分の一)らしく、すすめていく。まず、もっとも簡単な命題(These)を提出してみる。「AはBである」だ。これでいくと「私はあなたである」とはいえない。では「私は私である」と、いえるのだろうか。実は、古今東西裏表、プラトンからマルクス、実存主義からポスト構造主義まで、哲学、思想の問題はここに尽きている。もちろん、私は門外漢なので、演劇(細かくいえば劇言語)からの問いかけとして、これを考えていく。まず、プラトンという哲学(者)の始祖はどう考えたか。プラトンはイデア(idea)というものが存在し、そこには「正しい私」というもの(設計図みたいなもの)が描かれており、現実の「私」とはズレていても、「真の私」は存在する、とした。その弟子、アリストテレスは、もし、「私」というものが、存在するのであれば、「私」を創っている(この場合は心身ともにである)材料というものが、存在するはずだと考えた。何れにとってもいえることは、「私」というのは[本質]な存在だということだ。(本質な存在というのをくだいていえば、私というものは、本(もと)より「私」という質として創られてているということだ)。ところが、ハイデガーやサルトルなどの実存主義哲学者は、これに反して、ハイデガーによれば、「私」というものは、現実的にその意志によって存在していく(現存在)ものであり、サルトルによれば、人間は本質に先立つ(もともとこうだという存在ではナイ)現実的な存在(実存)である、ということになった。これを先の命題に当てはめてみると、「私はナンである」ということになる。横道にそれていうと、哲学者ではナイが、文学者のアルベール・カミュは「私はナンである」けれど、それは条理に沿った存在ではナイというだけで、必ずしも存在の[自由]を保証されているワケではナイ、「不条理」な存在だ、とした。さて、このあたりまでは前説(枕)だ。ここにソシュール言語学というものが登場する。ハンカチョー(半か丁or半可通)の私は、のちのち、ポスト構造主義が誤ったもっとも大きな原因(要因)は、この、機能的、構造的、形式的な言語学にあると考えている。というのも、実存主義以降の哲学、思想は、この言語学に大きく影響を受けているからだけでは、なく、不思議なほどに無批判に自身の思想展開に、この言語学を応用しているからだ。なぜ、ソシュール言語学を論理に引きずりこむと、危うくなるかといえば、この言語学の特質が、ヘーゲル哲学とは相いれないからであり、ヘーゲル哲学を批判するのには都合がいいが、ヘーゲル哲学を間違ってしまう懸念があるからだ。さて、ジクソーの枠は出来た。(あのパズルは枠をつくるのは、さほど難しくナイ)そこで、カントが「AはBである」をどう考えたかを、みてみることにする。

2010年6月21日 (月)

あれか、これか

テレビのニュース(バラエティ)で繰り返し報道(放送)される力士の野球賭博における名古屋場所を開催するかどうかという、不毛の議論(座談、談義)を観ていて、他人事(私は相撲なんぞに興味はナイ)ながら腹が立ってきた。そんなもの、簡単なことじゃないか。賭博をやったことがナイ力士だけで、名古屋場所を開催すればすむことじゃナイか。それを、緊急理事会とかで、やってるらしい。どうい結論が出るかどうか知らないが、「このたびの一連の不祥事につきましては、協会、理事、現役力士ともども深く反省し、二度とこのようなことのナイように角界の清廉化に努めるとともに、日本国技の大相撲ファンのみなさまに対しては、さらに深くお詫びをして、いま一度、温情なるお心にすがる思いで、名古屋場所の開催をお許し願いたいと・・・・」てなことになるんだろうけど、そうしないと銭になんないからね。銭なんですよ。賭博が問題じゃナイの。銭にまみれた相撲協会の体質が問題なの。何が心・技・体だ、どこが国技だ(誰が決めたのか知らないけど、どこを捜しても、そんな法規はナイな)。アホラシイ。

2010年6月20日 (日)

土俵には金が埋まっている

先代の若乃花(二子山親方)は、力士を励ますため、の、つもりで、そういったそうだ。そうしたら、ほんとうに深夜、土俵を掘る力士がいたそうで、ま、角界というのは、そういうところだと思っておいたほうがイイ。野球賭博(だけではナイんだぞ、ほんとは)と暴力団との関係で、ハンデ師なんて業界用語まで、ニュースに出てきているが、高校野球にもハンデ師はいるのだ。かなりのデータを持っているので、だいたいの優勝高校はワカルのだそうだ。(そうだというのは、さすがにハズレる場合もあるが、ベスト8まではほぼ確実)博打といえば、昭和の名横綱、輪島の博打は有名で、このひとは博打大好きだったのだが(暴力団とからんでいたかどうかは知らん)、身内で博打をやるのだが、勝ったためしがナイ。というのも、勝っていても、うまく誤魔化されちゃって、負けることが多かったそうな。この度の不祥事で、親方が、部屋の力士を集めて、「この中で賭博をやったことのある者は手を挙げろ」といったところ、「親方、どれくらいの力士が賭博をやってるか、賭けてるヤツがいます」といったという、ジョークまである。だいたい、賭博というものが悪しき行為であるということを知っていた力士は殆どいなかったというのが、ほんとうのところで、暴力団というのが、どういう団体なのかというのを知っていたという力士も、同様にあまりいなかったらしい。それを笑ってはいられない。ニュースを観て、いったいどれだけの一般人が、賭博というもののシステムを知っているのか、逆に知りたいくらいだ。暴力団というのは、「暴力」を職業にしている。「博徒」というのは博打を職業にしている。公営ギャンブル以外の博打は御法度の日本で、博打を生業としているのも暴力団関係であるからには、そっちの博打のほう(たとえば賭場とか)を取り締まればよさそうなものなのに、カモにされた、アホな相撲取りをしょっ引くというのも、味のイイ話ではナイのだが、暴力団が砂かぶりで、ずっと本場所を観ていたくらいだから、すでに相撲協会と暴力団というのは、一蓮托生。呉越同舟というワケにはいかない。・・・豆知識を付け加えると、丁半博打の「丁」が偶数なのは「丁度割り切れる数」だからで、「半」が奇数なのは「半端な数」だからだ。時代劇で、時々、四の目と二の目が出ると「死に」になるから「墓場の丁」などというが、ありゃあマチガイで、ほんとうはサイコロを墓石に見立てた、裏ッかわが四と二の目になっていなければならない。では、表の目は(考えましょうね)。また賭場で、「丁方ないか、半方ないか、はい丁半揃いました」てなことをいうが、五分五分に丁半のコマが揃ったワケではナイ。丁のコマが多く、賽の目が丁だったときは、賭けたほうが当たったことになるから、胴元の負けになるので、そのぶんは胴元が払い戻す。ただし、このときに、一割を差っ引いて戻すので、これを寺(テラ)銭という。さらに、負けがこんで客が素寒貧になるということはナイ。現在も行われているノミ行為と同じで、負け金の一割は、客の去り際に、客に戻すことになっている。そういうサービスがあるので、客がつくというワケである。ただし、これは伝統的な賭博であって、世知辛い世間の、現在の賭博システムについては、私もよく知らない。私は風俗と、博打とには縁がないからだ。(おまけに飲めないしネ)

2010年6月19日 (土)

ナニが表現なのか

こと、資本主義下の表現(者)においては、その表現が経済学的に「交換価値」(つまり換金されてしまうということだ)を持ってしまうのは、本質的なことだ。ここで表現(者)としての、姿勢や、信条、倫理や心情は行くも帰るも地獄でしかナイゆえ、作り笑いを強いられる。そうして、けっきょくのところ、世間に対して見栄をきったり、威張ったり出来るのは、世界各国のいくつかに豪邸や別荘を持っているとか、金銀宝石を身につけているとか、成り金と寸分違わぬ部分ということになる。正直にいうと、私は、物書きになれなかったら、狙撃銃をマスターして、本気で殺し屋になろうと思っていた。もし、日本がアメリカのような銃社会であったなら、そうしていたかも知れない。アトは、ふつうに生活者として生きていればそれでイイ。では、何故、表現などというものに足を突っ込んだのか。ヘーゲルの[有論]によると、人間が頭の中に思い浮かべる事(事象)を「表象」というが、この表象というものと、外部環境の現象を一致させたいというのは、人間の持っている[衝動]だ、ということになっている。もちろん、そんなことは出来そうにナイことなので、ここに表現という方法なり手段なりが生まれる。簡単にいえば、表象を表現して、現象させたいという衝動が人間には存在する、のだ。とりあえず、これを信用することにして、話をすすめれば、言語は、その一つの手段だ。さらに、言語と身体によって構築され表現される演劇は、表象のかっこうの環境世界に対する衝動の実現(現実性)ということになる。(この[衝動]がどこから来るのか、という問題については、私なりに、この欄の『劇、それ自体』で展開してある)。本来は世間(資本社会)において、表現など何の役にも立たないという絶望が、paradoxとして、唯一、資本社会から、常にあるstanceを持っているという、表現者なら誰でもが潜在的に直感している希望となって、表現の持続をかろうじて支えている。表現者としての貌と、生活者としての顔を、ヤヌスの鏡のように持ち得ているあいだは、ヘーゲルの哲学は知らねども、導き出されている[衝動]のほうは、まだ頼りに出来るように思う。

表現という商品

資本主義において(もちろん、社会主義を標榜する現中国にしてもそうだが)、いい商品というのはよく「売れる」商品のことだ。これが、資本主義経済の金科玉条(略して金玉)である。ところで、「いい商品」=「よく売れる」ということを、経済学的にいえば、その商品の「交換価値」が高いということをいう。東大の経済学部博士課程を卒業して、帝京大学の準教授である経済学者(専攻は数理経済学)が、「使用価値」の高い商品がいい商品だなどと、ぬかすのを呆れ顔に観たのは、もうずいぶん前だが、いろはのいから、いえば、どんなに使用価値が高くても、交換価値がなければ、その商品が紙幣(貨幣)という商品に交換出来るワケはナイ。こやつは、価格は市場で決定されるという、まことしやかな説まで吹聴していたが、バラエテイのゲスト評論家でもあるまいし、そういうアホなことは、間違っても口にしてはイケナイ。商品の価格が、労働(力)と資本の利潤によって決定されるのは自明のことだ。資本が利潤を無視して、市場に商品を並べることなど、あり得ない。そのアトは、消費者と販売者の競りが残るだけだ。資本主義は、ありとあらゆるモノを「商品」とするので、表現もまたご多分に洩れず「交換価値」とならざるを得ない。新聞紙上に掲載される、今週のベストセラー書籍に、いつもながら、ある宗教法人の総裁が書いた本が数冊入っているのは、それが「いい商品」、つまり交換価値が高いからだ。もちろん、中身などどうでもよい。鰯の頭であろうが、護摩の灰であろうが、なんでもいい。表現が交換価値を持つ商品となることは、避け得ない実情だが、苦しいのは、表現者の懐だけではナイ。表現者の倫理も苦しい。生前はたった一枚の絵も売れなかったゴッホに倣って、とりあえずは、アルバイトや派遣社員で糊口をしのぎ、表現は銭にしないと、諦めているあいだはまだ救いがある。いざ、音楽の一曲、文章の一節が売れる事態になった場合、現今の資本は、表現者の売れるもの(交換価値の高いもの)は平伏して相手にするが、売れないものに対しては、如何なる面倒もみない片道切符しか用意しないからだ。こんなことは、ほんの1年くらいでブラウン管に現れては消えていく芸人にもみられるし、歌い手にもどうようのことだが、中には、何を勘違いしているのか、これだけ舞台活動を続けていても、テレビからはお呼びがかからず、食えやしないのはひどい、などと、いいだす連中のいることだ。台本に目を通して、くだらねえと思いつつも、芸(のようなもの)を切り売りして生活している者は、逆に、せめて舞台だけでもsanctuaryとして守らねばと、マスコミ媒体の放牧場のようになった昨今の舞台を苦々しく感じているし、本来ならば、テレビなんざ武者修行の場だと思えばいいはずなのだが、真剣勝負の場のように考え違いをしている数多の役者に呆然としているのが現状だ。名優原田芳雄が、仕事に行くとき「ちょっと芸能界にいって来る」といって出かける話は、このあたりの苦渋をウィットにして、小気味いい。私も、「さて、北村想をやってくるか」と、自らの交換価値をレッテルにして、(めっきり減ってしまったのではあるが)仕事にいかねばならない。

2010年6月18日 (金)

戯曲(劇)言語について・続

時枝誠記文法(言語過程説)や、三浦つとむ言語学が戯曲(書かれた劇)に有効(向いている)のは、「詞」と「辞」によって、コトバに、それを発する主体を付与し、[表現]として言語をとらえたという理由による。てなことをいうと、なんだか難しいこと、またいってやがるになるので、簡単にいってしまう。「詞」というのは、たとえば、「花」という名詞だと思えばいい。ここには、「花」という意味が現されている。ソシュール言語学では、言語の意味は対象を持たないので(つまり、「花」をべつに「ナナ」と称しても、とりあえずの差し支えはナイ)「花」という文字なり発音があって、それに対しての「物」が存在すれば、それでいい。だから、日本では「イヌ」といい、アメリカでは「dog」という動物が、存在すればそれでイイ。そこに、ある共通の意味、用法、文法(ラング)が出来上がれば、「キモイ」といういまふうのコトバも(こういうのをパロールというのだが)、意味することが同じであれば、それが言語なのだ。「キモイ」と「バチャル」の違いというのは、そこに「差異」があるからということになる。(箸とフォークとの違いのように)これはこれで、言語というものが、その時代に普遍性を持つもの(ソシュール言語学では共時制という)と、時代を経ても存在(同じく、通時制という)していくものに分別されていくという歴史観を獲得することも出来る。(フーコーのいう言説・・・ディスクールというのは、その時代の言語パラダイムのことだ)。・・・ところで、「花だ」、というコトバを゙どう解釈すべきか。この「だ」は形容動詞である。私たちが学校で学ばされた文法によると「活用」があって、「だろう」「で」「「な」「なら」と変化する。ここでどうして「な」「なら」が出てくるのかは、「花だ」は「花なり」でと同じで、連体形と仮定形で「花な」「花なら」と変化するからだが、時枝(過程説)では、この「だ」に、そのコトバを語る(書く)主体を置く。(三浦言語学では、この過程のすべてを言語であるというのは誤りで、言語というのは、書かれた文字、発せられたコトバ自体のみである)。この「だ」を「辞」と称する。私たちが、戯曲(劇)を書く場合、必ず「それを発する主体」を 念頭に置くので、ソシュール言語学の形式的、機能的、構造的な考え方よりも、時枝-三浦文法のほうが受け入れられやすい。たとえば、「困った(よ)」と、「そうなのか(よ)」の「よ」は、コトバのベクトルがあきらかに違う。前者は、主体の状態を表現して、副詞として用いられているが、後者は、「そうな(の・か・よ)と、相手に向けての幾重もの疑問の強調で、「そう(な)」でも、終えることが出来るものだ。だから、劇作家は、ここで、「そう」「そうな」「そうなの」「そうなのか」「そうなのかよ」と、五つも選択枝を得ることが出来る。これをソシュールに置換すると、それぞれに対応する「物」か、「差異」によって解釈しなくてはならない。一見、それでも解釈出来そうだが、意味がすべて同じなので、ただ、同じこと、としかいえないことになる。(箸の長さの差異じゃナイのかというのは、量の問題で、質の問題ではナイから、意味としての解釈にはならない)。これが、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論になると、喫茶店で、「ホット」というのも「ホットを」というのも、「ホットだ」というのも、ルールに反していなければ(ホットというのが、温かいコーヒーであるというルール)解釈の違いは生じない。つまり、主体が消えて、コトバとルールだけが残ることになる。すると「花だ」すら、解釈出来ないことになる。(それが花であるという解釈以外の解釈はナイということになる)。ソシュール言語学から「差異」を消去したようなものだ。

2010年6月17日 (木)

戯曲(劇)言語について

ふつう、戯曲には、二種類の文体が用いられる。ト書きとして使われる「散文体」と、登場人物が語る「話体」だ。ところで、双方に共通していえる、他の散文(小説・論文・エッセー)との大きな違いは、文章に[省略]が多いということだ。たとえば、書き出しのト書きを次のように書くと、

風が吹いている。鳥が飛んだ。

散文(小説など)と同じだが、戯曲では、

風、吹いている。鳥、飛ぶ。

というふうにト書きを、ある[省略]のカタチで書くことが出来る。この場合に省略されているのは「助詞」だ。同様に「格助詞」も省略されることがある。(「涙、こぼれる」、「二時、開演となる」)何が「助詞」で、何が「格助詞」か、ここに「抽象名詞」や「助動詞」が加わってくると、もう頭がクルクルするので、書いてるぶんには、あんまし、気にせんでええ。ただし、「私、北村想です」と書かれた場合、この省略が「私は北村想です」と「私が北村想です」では、異なってくる、くらいはおぼえておいていい。では、何が異なってくるのか。コトバは一方通行ではナイ。それが独り言の場合でもそうだ。必ず、いう側と聞く側の存在がある。そういうことを、言語学において、初めて取り上げたのが、時枝誠記という言語学者で、ソシュールの機能言語学の批判として、これを言語過程説という。(詳細について、この程度のことはGoogleで調べられるので、やってくれ)。つづめて解説すれば、ソシュールが、言語というのをラングとパロールとに分けて、世間で会話の中から生み出される、数々のコトバ(パロール)が、ラングという(規範)になっていくとして、言語を一つの機能とみなしたのに対して、時枝(過程説)は、まず、ある認識があり、次にそれが概念となり、それが表現としての形態となっていく過程を言語過程としたのだ。つまり、いう側の認識⇒概念⇒表現(書きコトバ=文字、話しコトバ=発話)を、逆にたどっていくことにより、いう側の認識に到達して、いう側が何をいいたいのかを認識するということで、コトバ(パロール)がソシュールの言語学のように、常にラングに帰納して、了解されるというワケではナイ、ということをいったワケだ。学者などには、ソシュール言語学が好まれているようだが、表現者には、時枝(をさらに唯物弁証法でとらえ直した、三浦つとむ言語学)のほうが、真っ当に思える。(数学者、アチャラカ哲学者は、ウィトゲンシュタインや、チョムスキー文法をお好みのようですが)。ところで、平田オリザ氏が、「コミュニケーション」というのを重要視しているのだが、彼のいうところ、ある者が、ちゃぶ台といい、ある者が同じものをテーブルという、コトバのすれ違いは、communicationを通して、概念の了解から(極端にいうと、チャーブルといってもいいことになっちゃうんだけど)、彼のEpigonenが、彼の戯曲の書き方の真似をして、ト書きで「去りつついう」「相手のコトバにやや重なるようにいう」と書けばイイものを、▲マークをせりふの頭に付けたり、◎マークにしたり、そういうことが流行ったんだけど、communicationを通して、いったい、戯曲(劇)言語をどうしたいのかは、まだ、私の中で咀嚼されていない。付記するなら、『劇場法』も、初動コミュニケーションが失敗したんと、ちゃいまっか。

2010年6月16日 (水)

五月雨

雨、の前の日は照りつける夏で、いよいよだなと思いきや、シャツを二枚の、寒い雨。五月雨と呼ぶには早すぎるのか、と、思いきや、蒸し暑くなってきて、やっぱり、五月雨の季節なんだろう。いつもは冬に漬けるキムチを漬けてみた。あんまり、他にやりたいことがナイし。なにより、自分で漬けたキムチが食いたくなったので。

五月雨をまちてキムチの辛さかな

まあ、しばらくのご無沙汰だったのに、こんなもん。

2010年6月11日 (金)

この夜郎

郵政なんとか法だか、知らないが、現政治情況における「夜郎」というのが国民新党だということはこれでいきなりではなくても、鮮明になった。プチ・ファシストの小泉政権によって、この国は、政治で動かせるものだという妄想、錯誤を政治家たちが持ったがために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、引っかき回されているのは国民、庶民大衆で、政治的誤算が、ここまで生活(いや、もう人生といってもイイ)を左右するとは、日々の暮らしをやりくりしている私たちも思わなかったからだ。そのうえ、テレビで向こう受けすることを喋りくって、てめえは何億円もする豪邸に住んで、さらにマスコミまで牛耳っているやからが、「庶民は」というコトバを口にすると、辟易してしまう。こないだは、さる番組に、『けんかえれじい』(鈴木清順・監督)のヒロインを嫁にかっさらっていった、元タレントが、デカイ面をさらにデカクして、政治について大きな口を叩いているのをつい、観てしまって反吐が出そうになった。この連中も、間違いなく「夜郎」なのだ。こういうことをいうと、貧乏人の愚痴や繰り言、嫉妬にしか聞こえないだろうが、そうして「稼いで何が悪い」といわれても、「悪いことはありませんね」としか他に答もナイのだが、どうしても、こういう連中は、また日本が戦争でもおっぱじめようなら、口を揃えて、それに加担するに違いないのだ。それは、この連中が悪人だからではナイ。むしろ、善人かも知れぬ。善人は、何も戦争に反対するだけではナイ。善人であるからこそ、過去の戦争において加担するしかなかった例を、intelligentsiya、芸術家等々に、私たちは、多く知っている。現在、日本の宗教団体で、その信者が最も多いのは、神道だが、2位は「幸福の科学」である(週間ダイヤモンド2009・9・12による調査結果)。こういう時代(こういうというのは、要するに、何事も信用のおけそうにナイというこういう、だが)政治も科学も、私たちをいったい何処に連れていこうとしているのかワカラナイ時代、必ず天国、極楽に連れていってあげますよ、というのが、イチバン強いのは、いうまでもナイ。かつて親鸞もまた、庶民困窮の時代にあって、そういわざるを得なかったのだから。と、こんなことをほざいている、私自身もまた「夜郎」の部類なのかも知れないなという、自問と自省はあるが、少なくとも、自分のいっていることは半分も当たってはイマセンという自信がアルのだ。ここだけが「夜郎」に陥らないで踏みとどまっていられる私の原理原則だといってイイ。この半可通ならぬ、三分の一可通でいると、残りの三分の二に、「夜郎」ではナイものを入れることが出来るから、うまくしたもんだ。つまり、残りの三分の二のことが掴みやすくなるのだ。これは全可通(自分のいうことが真理だと信じ込んでいる者、即ち「夜郎」)には出来ないことだ。三分の一の学問と経験、そうして三分の二の好奇心で、この時代の「夜郎」たちと、闘っていくしか、私のドラマツルギーというものは、ナイ。

2010年6月10日 (木)

こいつら、をみよ

『このひとをみよ』なら、いま流行りのニーチェだが、発足したばかりの閣僚たちの、事務所経費のあらさがしで、「大臣辞任せよ」と、いきなりいい出している自民党幹部も、落ちるところまで落ちたという感をぬぐえない。政策論議でやることが山積みの昨今に、まさに「こいつら、をみよ」だ。こういう下劣な政治家どもが、足の引っ張りあいをしている間に、私たち庶民大衆は家計に四苦八苦して、老後の不安におびえ、そのおびえにつけこんでの詐欺やら、働き口のナイ人々を騙して、支給金を奪い取っていくという、ニセNPO法人の事件がアトを絶たない。イイカゲン、真面目にやれよと、いったところで、こいつらペテンパーには、そんな声すら届かないだろうな。参院選まで、もう少しなんだから、参院選対策内閣といわれてもしょうがナイが、いい大人(政治家)が、銭のことで、クリーンだのなんだの、政治なんざ、おのれの手を汚してナンボというところもあるんじゃないのか。蓮の花も、泥沼の中から咲くのだということは、こいつら自身がイチバンよく知っていて、信条にもしていることなんじゃナイのか。以前の沖縄経済は、その半分を米軍基地に依存してきたが、現在は5%だから、沖縄問題はもう銭で解決出来ない、といいきっている、沖縄知事のほうが、まだパラドクスとして、現実的なのだ。物価は本土並だが、賃金が、時給600円代という、沖縄の現状は、本土よりもさらに賃金格差と、貧困富裕の差を生じているはずだ。右手をみれば、戦後のままの住居が残り、左をみれば新開発のビルの群れが立ち並ぶ、この風景は、そのまま情況ではないのか。・・・なんだか、腹立てるだけ、損だナ。

2010年6月 9日 (水)

数式と漢字

思想・哲学などに関する書籍を読むと、たいてい1ページに最低でもひとつか二つは読めない漢字が登場する。入試以外で漢字の勉強をしたという記憶のナイ私の場合は、娯楽小説を読んでみたところで、同様のめにあう。どうしても素通りできない場合は漢和辞典のお世話になるが、たいていはワカラナイけど、だいたいでいいやとスルーしてしまう。このほど、常用漢字(かつては当用漢字といったはずだ)が100文字以上増えた。そこで、教育現場ではこれを教えるのに戸惑いの色を隠せない(という新聞の見出しが多いから、そう書いておくが)のだそうだ。教育現場というものが、どういう現場なのか、あまりよく知らないが、そういう戸惑いくらいは持ってもらいたいものだ。習ったこっちは、戸惑ったというよりも、まるっとおぼえなければ、しょうがなかったんだから。漢字がいつ成立したのかは判明していない(いろんな説はあるようだが)。しかし、もともとは象形的なものであったということはワカッテいる。画数の多い漢字も、そこからの部分ごとの意味の組み立てであるということも。だから、鬱病の「鬱」という漢字をなぜ、そう書くのかはワカッテいるのだ。つまり漢字のある属性は、なんらかのカタチを普遍的な意味として形態化させたものだ。だから、一文字で「概念」を表すことも出来る。(カントなんて読んでるもんだから、最近、この欄では概念というコトバが多く使われるようになった、のよ)。[国家]や[宇宙]などはそういう部類だと思っていい。また[価値]や[法則]といった漢字は、さらに、超感性的な「概念」や「意味」も扱うことになる。その各々が、偏や旁(つくり)から成っているところから、これを分別して漢字の持つ構造を教えていけば、その漢字の意味や概念を考えながら学ぶことも出来る。「鬱」というごちゃごちゃした漢字にしても、分類、分解していけば、なぜ、鬱は鬱と書くのかが、ワカルはずだ。なんで、教育現場という現場は、そうしないのか、わかんねえ。私たち表現者にとって面倒なのは、たとえば「美」という漢字を用いて、何を表現したいのか、「一生」という熟語で、何を表現したいのかが、表現した者の数だけあることで、これは、その漢字の前後関係を読み込んでいかなければ、容易に追体験出来ないし、追体験もまた、そうする者の数だけあるということだ。ところが、数学の数式(自体)は、普遍性しか持たない。数式は数字と記号の羅列なのだが、日本人がみても、アメリカ人がみても、同じ関数は同じ関数だし、方程式が同じなら、同じことが書かれている方程式だ。ここから、数学というものは、客観そのものなのではナイのかという迷信が生まれる。普遍と客観は違う。たとえば、ゼロ(0)というものや無限(∞)は、a prioriなもののように思えるが、空間や時間などと違って(空間も時間もアインシュタインの登場以降、そうではなくなったが)、実際に存在するのかどうか決められない。虚数(複素数)もそうだ。しかし、それらがナイと、現代数学は成立しない。理論物理学、量子力学とて、存在出来ない。とはいえだ、ゼロ(無)とか、無限とか、をいうまでもなく、「関数」とか、「指数」とか、もっと簡単な「集合」ですら、漢字であるのに、一見して意味のワカルものはナイ。たとえば「関数」は、何かが何かと「関係してんじゃねえの。三角関数は、男女の三角関係と関係あんのかね」くらいしかワカラナイ。「指数」は「指の数だから10本で数えられる数のこと」だし、「集合」は、場所とか、時間のことだろ。つまり、数学(数式)のワカリニクサというのは殆ど、この熟語漢字のせいである。私は戯曲の書き方を教えるのに「位相幾何学」を使ったりするが、この漢字をホワイトボードに書くだけで、塾生のどん引きがワカル。漢字も数式も、一度使い慣れると、たとえ書けなくても、計算(algorithm)が出来なくても、わりと便利なものなんだけど、そういう便利なものは、教育現場で戸惑わずに(戸惑ってもいいけどさ)教えてもらいたいと思う。

2010年6月 8日 (火)

映画感想『ディアドクター』

西川美和監督の唯一の欠点は、映画がいつも完成されているということだ。としか、この天才に文句がつけられないというのも、いやみといえばいやみなのだが、ただ、『ディアドクター』については、少々、音声の不備があったようだ。今回はDVD鑑賞だから、映画館で観れば、そういうことはナイのかも知れない。このひとの自然で精緻な台詞のいくつかが、私の観た条件下では、不明瞭だったことだけが残念なだけだ。映像の専門でもナイ私が指摘するのはおこがましいことは承知で、この作品についていうならば、同じ監督の他の作品では気がつかなかったのだが、実に正統なモンタージュが施されているということだ。モンタージュを映像の言語化だとか、編集の手段だとか、誤謬している若い監督もいる中で、この作品に何ヶ所もみられる、モンタージュは、感性として、文学的な感覚をかもしだしているもので、その直球ぶりに、それを「古い」とか「鼻につく」とかというふうに観た御仁もあるはずだが、私はただ、うめえなあぁっ、と感心するばかりだった。一例をあげると、物語の核心となるプロットで、ニセ医者である伊野(笑福亭鶴瓶)が自身の存在を賭けて嘘をつく、鳥飼かづ子(八千草薫)の病気に気づく、娘のりつ子(井川遥)のアイスクリームのシーンである。まず、帰郷している、りつ子が何気なく冷蔵庫からスティック・アイスを取り出すところから、すでに、観客はある予感を持たされるように、もう仕組まれているのだが(というか、この予感を与えるという技量がナイと、このプロットは成功しない)、冷蔵庫の横のごみ箱から、胃潰瘍のために処方された薬品の空ゴミを発見してしまう。りつ子は医者である。このとき、異変を覚ったりつ子は、すぐ傍のシンクタンクにアイスを捨てる。ここで、ふつう(凡庸といってもイイ)ならば、その薬品の空ゴミに驚くりつ子の表情で、シーンは終わる。ところが、西川監督は、捨てられたアイスが溶けていくというモンタージュ技法によって、りつ子の心情を描写してしまうのだ。このようなモンタージュ技法は、この作品に多くみられた。『蛇いちこ』では、マンガのコマ割りのように軽快だった心地よさは、ここで、丹念に創り込まれた丁寧さによる心地よさとなる。付け足せば、柳沢克己の撮影の、なんと美しかったことか。西川監督には、次作では、ぜひ、時代劇を。

交通安全とパチンコ

昨日は免許更新。更新センターが滋賀県の場合、最寄りの駅から遠い、田んぼの真ん中にある辺鄙なところで、バスも一日10本ほどしか走っていない。かつ、更新受け付けは、午前に1時間と午後に1時間しかやんない。しょうがないので、タクシーを利用。これで片道2700円。余談だが、このタクシーの運転手さんが、この地方の交通道徳と、警察対応のお粗末をボロクソに熱弁。で、一番乗りだったが、さて、どうしていいのか、誰もいないんで、待つしかナイ。そのうち、待つひとが増えてくるんだけど、長椅子が一つしかナイので、皆さん、立ってるしかナイ。受付窓口は10ばかりあるのだが、そのうち3ヶ所は「交通安全協会」のもの。これは、交通課の退職警察官の再就職先だが、免許更新者において、そこに入会金を支払うかどうかは任意(とはいっても、平然と徴収している県もあるらしい)なので、私は支払わない。この協会がやってることは、パチンコ業界の警察利権に比べればカワイイもの。あのね、パチスロ(私はここ10年やってナイけど)ね、あれ、一機種の検査(もちろん、警察官の再就職先のとある協会がやる)費用が181万円ですよ。この収入は、年間にして20億円以上。で、この協会とパチンコ機製造メーカーがグルという仕組み。これは、資料が古いので現在どうなっているのかはワカラナイ。よって(らしい・ようだ)としかいえねえんですがね。まあ、それでも、要するにパチンコ業界というのは、警察官僚の垂涎の天下り先ですよ。・・・ずっと名古屋で更新してきたので、ちょっと驚きの免許更新でしたが、やはり、土地のひともイライラはしているようで、受付が1時からだから、窓口の閉じられたカーテンの向こうから、昼飯を終わった係の女性の方々が世間話に興じてキャッキャッと笑う声が聞こえてくるのが、それを助長する。イイカゲン、ひとりの爺様が、閉じられた窓を叩いて、「何がどうなっていて、どうすればいいんだ」と、詰問しましたねえ。1時に受付窓口に行けばいいのか、並べばいいのか、申請用紙も置いていないし、まったく、ここの作業の流れがワカランのです。そのうち、安全協会の方が出てきて、流れを説明。説明ったって、幾つかの行程、手順を一回述べられるだけ。よほど注意して聞いていないと、ワケわかんなくナル。公務員というのは、私たちの税金の48%で暮らしているんだから、数千円のここの手数料(証紙代金)てのは、税金の二重払いになるんじゃねえのかな、などと、思いつつ、帰りもタクシーで(だって、次にバスが来るのは1時間半後ですから)ってことになりまして、次は5年後か(ゴールドですから)生きてねえかも知んねえナ、と、帰宅。ヤな一日。

new! 新着情報:南の島に星がふる (2010.0711終了)

new! ■ 戯曲提供

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2010年7月7日~11日  SPACE107

劇団21世紀FOX 第65回公演 

「南の島に星がふる」 ……終了しました。次回は2011年正月公演の予定です。

作/北村 想  演出/肝付 兼太

【Comment】

「死ぬ」ということはそんなに怖いことではナイのだ。愛するひとのため、信ずることのためになら、ひとは前向きに死ねるのだ。ほんとうに怖いのは「生きる」ということだ。なにしろ生きたことのナイ人生を生きるのだから。エナケンは、生きることに目的なんか持ってはいない。風の吹くまま気の向くままだ。こんな世知辛いご時世だ。
今日一日生きることが出来たなら、それで充分だと、私は思う。        北村 想

【公演情報・チケットご予約はこちら】 劇団21世紀FOX「南の島に星がふる」公式HP

2010年6月 6日 (日)

癪にさわるので(改稿)

「世界は私の表現である」「私は世界の表現である」、これは、以前ここに書いた表現論の命題(These)だが、このTheseをもとにして、引っ越してからこっち、鬱病の具合の悪さ、つまり、転居というものが、鬱病に与える影響というものについて考えてみることにする。ただ、微熱が出たり、嘔吐感や腹部の苦痛に苦しんでいるのでは、癪にさわるからだ。ただし、これらの身体症状それぞれについての生理的なことは、括弧に括っておく。・・・これは、40年前に名古屋に一人、出て行ったときにも感じたことと同様なのだが、転居したさいに、どういうワケでなのか、「現実感の希薄さ」「自身の存在の喪失感」というものに苛まれた。これは、鬱病患者の所見にも多くみられることらしい。従って、転居による不具合の 原因はそのあたりにひそんでいると考えてマチガイはなさそうだ。また、それらは、実感ではあるが、a prioriなことではないので、「悟性=概念(category)」として、考えていいように思う。ここでは、これらの要因を心因性であるとか、外因性や内因性であるとかという、いまの精神医学の見識、知見、診断の基準では扱わない。そういうものに素人であることもあるが、たとえそうでなくとも、たぶん、そういう方向性は、役に立たない。何故なら、いつもいうように、それらは、必ず「アトづけ」であるからだ。それは、プロ野球の解説者の解説と同じようなものだ。・・・表現論を演劇にせばめて、この世界(環境)というのを舞台に、私を一人の役者(表現者)として仮定する。さらに「私」という概念をカント流に、「表現された自己としての私」と、「表現された自己を識知する私」と、カントが認識出来ぬものとして規定した「私それ自体」を含める。転居などで環境(世界)に変容が起こった場合、私は、それを前述したテーゼのように捕捉しなおそうとする。つまり、変容された世界(環境)に対して、表現され、表現するモノとしてふるまおうとする。これは、舞台という環境(世界)に立つために、それを自身の表現として「受け取り」、さらに、その表現に対して自身を「役」として表現することで、世界(環境=舞台)と対峙せんとする役者(表現者)と同じだ。ここで、私・役者(表現者)は、その世界(環境=舞台)から受ける敵対行為を(鬱病における症状を)、自らの演技(あるいは演技力)のいたらなさだというふうに了解してしまう。新しい環境に馴染めない、自身の資質や経験、病気のせいだと了解してしまう。しかし、これは、まったくの錯誤だ。何故なら、それは、「私それ自体」と「表現された自己としての私」における本質的な[疎外]を原因としているからだ。「表現された自己としての私」も「それを識知する私」も、けっして「私それ自体」ではあり得ない。あくまで、「表現された自己としての私」は「表現」なのだ。この、錯誤(私の演技は下手なのではないかという疑念、錯覚、諦念、自虐)が、病態となって露出する。「私それ自体」と「表現された私」のあいだには、必ず「違和」が存在する。それを[疎外]と称する。この「違和」、[疎外]は、表現においては埋められない。で、あるのに、「私」は、「表現された自己としての私」を識知して、自身の表現の下手さに、ジレンマ(dilemma)を持つ。変容された世界(環境・舞台)に適さなかった「私・役者(表現者)」として、「私」にさらに「違和」を唱えるのだ。この「違和」が「現実感の希薄さ」「自身の喪失感」として生じ、身体的にこれを打ち消そうとする「働き」が、病態となって現れる。これが、もっとも単純ではあるが、明解な、答えだ。では、この「違和」に対して抵抗する手段はナイのだろうか。簡単な処方をいってしまえば、「うまい演技をして」錯覚するのだから、これをコペルニクス的に転換して、「下手な芝居」をやればイイことになる。「世界は私の表現」であり、「私は世界の表現である」が、「表現されている世界は無秩序で、表現されている私もまた無秩序である」という、Theseを第三項として付加すればイイことになる。おそらくその「無秩序」のうち、偶然に「私それ自体」に突き当たるモノがあるかも知れないことを、突き当たったって、どうなるものでもナイのだが、ほんの少し期待して、だ。

ピンチヒッター

市県民税の通知書が送られてきて、その額が、79万円というのには愕然とした。いつもより一桁多いのだが、いくら眺めていても、マチガイはなく、これは、映画のコンテンツ著作権料が支払われて、昨年度の収入が1000万円近くなったためだ。(いつもは200万~300万)その収入の殆どは、離婚のために相手にわたるので、相手は、財産分与として不動産(マンション、固定資産税から割り出すと950万円相当)と、動産1000万円を手にすることになるから、これで私財としては、私の所持する3倍近くになるはずだ。それだけあれば、まだ四十八歳なんだから、新しい人生を生きていくことも可能だろうという、当方のドクサである。自業自得とはいえ、一度に79万円はとても支払えないので、4期に分けて支払うことにして、コンビニから振り込んだ。(便利だなぁ、って感心している場合じゃナイんだけど)・・・さて、実家で母親との二人暮らしを始めたが、こういう環境の大きな変化は、鬱病持ちにはほんとうはイケナイことで、かなりの反動で、微熱が出るやら、へたるやら。現在のところ、内閣府における基準において、ワーキングプア並みの年間収入しかないし、仕事もナイ。とはいえ、これが生活というものなんだから、耐えるところは耐えて、いつでも仕事が出来るように、けしてのんびりなどはしていない。ピンチヒッター専門の選手が素振りをしているようなもんだ。ケチくさくなるとダメだなと、テレビを地デジ対応の液晶に買い換えた。母親はクイズ番組が好きで(たぶんボケ防止になると信じているのだろう)、毎晩、声を大きくあげては、テレビのクイズに答えている。年寄りだから、夜中に目覚めることがあるらしく、そういうときに読める本はないかというので、文字の大きな文庫で太宰の『女生徒』を買ってみたら、読後「すらすらと読める本やな」と変な感心の仕方をしていた。たしかにそれはマチガイなく、太宰はそういう文体を持っている。それが、未だに、若いひとにも受け入れられる一つの持ち味なのだ。ピンチヒッターの準備は出来ているのだが、どうも、走者が塁に出ないという情況らしい。誰か塁に出ないかな。

2010年6月 5日 (土)

バリアフリー

さて、朝っぱらからだが、勢いをつけるために「批判」というのをやってみる。タイトルを「バリアフリー」としたのは私なりにcategory error(学問の越境というふうに用いられている)をいい換えたもので、べつに、category anarchismでも構わない。8月に精華小劇場で予定されている、深津篤史・演出の『浮標(ブイ)』(三好十郎・作)の最終日、8日(日)のアフタートーク・ゲストに呼ばれたので、ちょっと学習しておこうと、そのバリアフリーをしていたら、『心に青雲』というサイトにぶつかった。主筆の名前が書いていないので、誰だかワカンナイのだが、師匠は南郷継正とあるので、空手家で、かつ唯物弁証法を学んだひとであることはマチガイナイ。で、『吉本隆明氏のプライドを失った近況』と題して、論点は、次のごとくだ。

吉本さんも82歳か…。しかし、それにしても「腰を90度に曲げて」つえをつき、歩く練習というより静止しているように見える歩行とは、無残と言うか何というか…。プライドのかけらもなくなったか」「彼の思想は学問とは異なって後世には残るまい。吉本氏の『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』『心的現象論』は後世に残るとは思えない」「親鸞論にしても、親鸞と浄土真宗の悪業というか負の部分はみないで、まるで漫画「キャンディキャンディ」の「いいとこ探し」」

この一つひとつを丁寧に「批判」していたら、朝の仕事に差し支えるし、そういう義理はナイので(というか、みなひとことで片づくようなので)簡単にいう。このひとは、空手という武道と、生活という庶民の営みをを混同(というか混濁して)認識しているふしがある。「弁証法と認識論を踏まえた」と自身の論理を看板に掲げられているが、私にいわせれば、アヤシイもんだ、な。だ。あのな、空手家が修行に耐えるごとく、庶民大衆も、その生活に「耐えて」いるのだ。威張るワケではナイが私も宿痾に耐えている。この宿痾は年間3万人の自殺者を出すものだ。それと同様に、生活者は、老齢というものに「耐えて」いるのだ。さらに、「腰を90度に曲げて杖をついているもの」が、その姿に無関係に、何がしかの武道の達人の域にある者だという、そういうことも考えられないではナイ。単に見栄えだけから技量を判断するということは、武道家として(認識論なんかどうでもイイが)の「油断」ではナイのか。・・・吉本さんの思想が学問ではナイというのは、categoryの問題だから踏み込まないが、たぶん、このひとは『ハイ・イメージ論』あたりで、躓いている輩だろう。たいていの吉本エピゴーネンは、ここらあたりで、吉本思想と決別しているようだから。私はEpigonen(よくいえば優等生、悪くいえば亜流)ではなく、劣等生の半可通だから、決別もへったくれもナイ。・・・親鸞について私にワカルのは、現在布教されている浄土真宗宗派とは、思想的には何の関係もナイということくらいだ。もし、その残骸があるとすれば、祖先供養と結びついて庶民宗教として残っているという、ありふれた宗教の形態くらいだ。・・・結びにひとついっておくが、私も南郷継正氏の武道理論からは多くを学ばせてもらった。それらを私は、私なりに演劇という分野で展開している。

2010年6月 2日 (水)

いいかげん馬鹿

鳩山辞任、執行部総退陣で、何のことはナイ、つまりあれだ、民主党には政権担当能力ナシとみて、大連立をもちかけた、小沢一郎の判断が最も正しかったということになる。もう普天間など、どっかいっちゃって、すでに政局(?)は政治のための選挙から、選挙のための政治へと動いている。「もともと全投票数の4%しか取っていない立場の違う社民党と連立したことが、有権者の気持ちを無視していて、福島氏と辻本清美氏の退陣で、裏口入学者が出ていってくれたことが、最大の功績」と、曽野綾子センセは、皮肉ってらっしゃるが(2日産経新聞朝刊)ほんとうは、そういうことは、クリスチャンである者がいうべきことではナイ。イエスとて、元は、少数派の辻説法師だったんだから。とはいえ、本心は、選挙のためなら、そこまでの醜態をまずみせておいた民主党に対する痛烈な批判であることは、認めざるを得ない。西部邁(これでたしかススムと読ませるハズ)センセは、「民衆の声は痴愚の声」(月刊正論)で「民意」というのを、叱咤してらっしゃるが、そんなことは、私たちはゼンキョウトーの時代に、すでに学んだことだ。死後に「天国」を設定したキリスト教に対して、仏教において弥勒菩薩が救済に現れるのは、五十六億七千万年後で、どっちにしたって、待てるはずはナイ。大衆は、待ってはくれない虫のいい民衆なのだ。たった八ヶ月で総理やめろ(もっとも、多くの大衆は、総理が辞めたところでどうなるものでもナイと考えているので、結局は民主党の選挙対策にしか過ぎないのだが)ともいうし、民主党支持20%割れだ。子供手当てというのは子供だましのマチガイだろう。大衆はそこまで愚かではナイ。こんな銭、来年、あるかどうかワカンネ、と誰もが思っているだろうし、また、それを愚直に、どうやって子供のために使うかと、考えている親など殆どいない。また、たとえ、親がそれをパチンコに使ったところで、その行為を咎められるものではナイ(そういう親批判をしていたコメンテーターがいたけど、そやつは「経済学」というものをまったく知らないだけだ)。いやもう、いいかげん馬鹿ばかり。私は隠遁するために田舎の実家にもどったのではナイが、ほんとに隠遁したくなったぜ。

2010年6月 1日 (火)

塾、初日

伊丹想流私塾、第15期の初回講義が昨日。今回からは、私は日帰り。鬱病期というのもあってだが、初日は、オリエンテーリング(事務的、他、書式の説明など)があるので、19時から20時40分ほどの時間で講義は終わり。講義といえど、初回は、この塾の方法論(やり方)と、塾生への注意(心構え)。たとえば、「塾長への質問は不可・・・自問、自考、自答」「固有名詞以外のメモは、レクチャー時間中は極力避ける(講義中に書いたメモなど、気休めで、何の役にも立たないばかりか、メモしたことによって、安心して、講義へのtensionが落ちる)」「ともかく、書き覚えていかねばしょうがナイ」「書きたいと思うこと(心的イメージ)は、コトバでは書けないが、そのココロの衝動、欲求、要求と、実際に書くものとを近づけていくという営為が、そもそも書くということだ」など。ストーリーやプロット、シチュエーション、キャラクターなどの基本的レクチャーは次回。で、毎回、「お題」があって、400字-5枚の戯曲を書いてくるのだが、最初のお題は「電気」。「電気」で5枚書いてこいというのだから、この塾のキツさがワカルでしょ。でもね、プロの道に足を一歩踏み入れた塾生にとっては、「友情・愛・夢・などet ceteraなよくあるテーマ」よりも、こういう具体的な概念(category)のほうが、いいの。ふつうは、後者のほうをアプリオリ(a priori)なものと思いがちだが、ほんとうは「電気」というもののほうが、より先験的(a priori)なモノなんです。後者のcategoryは、漠として、どうにでも書けるので、けっきょく「・・・らしいもの」しか書いてこないのよね。とはいえ、後者のほうを「悟性」として、さらにそれを「感性」に変換出来るようになれば、それが、書く力というものであります。・・・さすがに日帰りはへとへとになるが、11時前に帰宅。少量のアルコールで、1時頃就眠。久しぶりに『ジェットストリーム』なんかを聞きつつ。

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