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2010年5月21日 (金)

思考的戦闘

たとえば、いま私には「観たいなあ」と思っている映画があるとする。ところが、その映画館に出向くことが億劫というか、しんどいのだ。映画を観るということは、辛いとは思えない。その映画館が電車に乗って幾つか先にあっても、(ここが奇妙なところなのだが)たとえ、歩いて3分のところにあっても、出かけることが辛いのである。では、出かけないで、じっとしているのがいいかというと、これもしんどい辛い。いわゆる「どうすればよいのか」という、選択の余地というのが、鬱病には与えられない。すると、そこにじっとしている自分も、出かける自分も否定してしまったほうが楽な気がする。これが、鬱病患者にみられる希死感につながっていく。たとえば、「どこでもドア」のようなものがあれば、どうか。おそらく、ノブを回してドアを開けるのがしんどく辛い、ということになる。基本的に(あくまで基本的にだが)鬱病の典型的な症例がこういうものだと理解してもらいたい。しかし、ここで指をくわえているワケにはいかない。こういう症状の根拠が心因性か、内因性か、外因性かと問うことは、あまり意味がナイ。何故なら、アトづけで当てはめるなら、どれにでも当てはめることは可能に思えるからだ。そこで、思考の方向を転じてみる。この症状がアプリオリ(先験的)なものなのか、一つの「概念」を持つものなのか。ここでいうアプリオリは、純粋なものではナイ。生命体として、その類的歴史のうちに持ち得てきたのか、ということだ。そうして「概念」というのは、この症状が、何か「悟性」としてのカテゴリーに組み入れられるのかということだ。もう少しいうと、原因の幾つかが重なって(総合して)一つのものに出来上がった(統一された)ものかということだ。前者は時間的な位相にあり、後者は、空間的な位相にある。そうすると、私が映画館に行けない理由は、そこまでの空間的(距離としての・・・この場合は1㎞も100mも観念に転化しているので違いはナイと思っていい)な疎外によるものか、行き着くまでの時間の疎外によるものなのか、ということが出来る。簡単に考えれば、この空間的な了解と時間的な了解を、正常に得られないという情況に置かれているということになる。私が欲しいのは、こういう情況に人間の精神が(心的なものが)さらされることは、何か、他に類例があるのだろうかという、ことだ。もし、類例があれば、それを一つの演繹として、この宿痾を推理していけそうな気がするのだが。

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