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2010年5月27日 (木)

一度、座れ

道元の禅(曹洞宗)思想は、スピノザの神学に似ている。道元は「仏性」というものが、この世界のすみずみに行き渡っているものであるとして、もちろん、人間もまた仏性を持つとした。よって、曹洞宗の禅では只管打坐(しかんたざ)を最も重要な修行としていて、このコトバは道元の著作『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』でもしばしば用いられる。簡単にいえば「ただ坐れ」だ。もちろん、ただ坐るだけではナイ。坐ったとき、すでにその者は、釈迦が瞑想のために座禅したときと同じであるというのが教えで、「悟り」というものは、外から入ってくるものではなく、降って湧くようなものでもなく、すでに修行している人間の内に存在するものだから、悟るというのは、それを自覚(知ること)であるというのが、根本だからだ。つまり、仏-世界-人は、それで一つの宇宙だというのだ。スピノザもこれと同じことをいったがために(神-世界-人間)異端とされた。何故なら、カソリック(正統)では、神は神であるし、人間は人間であるからだ。と、話は飛んで、鬱病を座禅で克服した話はあまり知られていないが、要するに「ただ坐る」だけなのだから、鬱病患者にとっては、あまりキツイことではナイ。もちろん、坐り方はあるのだが(眼は薄目にして、約二間先-5~6m先を観る。呼吸は鼻先で、出来るだけゆっくりと行う。足は無理に組まなくてもいいが、組み方はある。何も考えないでいる、というのが正しいのだが、そんなことは出来ないので、何か一つのことに思考を集中させると、次第に他のことは考えないで済む)、これを毎日20~30分、実践する。目に入るものが邪魔であるならば、達磨のように、壁に向かうと、存外やりやすい。特に何かを自問して、答えを出すという目的はナイ。むしろ、何も問いかけないことがタイセツなのだ。坐るのは朝でも夜でも、いつでもイイ。眠くなってくれば、寝てしまえばいい。つまりは「意味のないこと」をやるということだ。ただ、現在の都市環境は、こういうふうに坐ることすら許してくれない。今度、蛙の声が聞こえる田舎に戻ってきたので、私も一度試してみようかと思っている。・・・政治世界がドタバタとうるさいご時世だ。国内も国外も、レミングの行進のさまを観るかのようだ。為政者も、一度、坐ってみることだ。それくらいの「余裕」をみせろよというのが、昨今の情勢に対する私の感想だ。

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