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2010年5月19日 (水)

logic

東京から帰って、首、肩、背中と鍼治療。ここは、「現代医学」の医者から診断書をとってくれば、保険が効くところなので、紹介状とともに、近隣の医院に明日行く予定。「現代医学」の中では、鍼どころか、まだ漢方薬すら認めていない医者がいるのはどうも「現代医学」のほうの研究不足と、威厳かと思うが、どだい、現代医学の[科学]である、一分野の「科学哲学」は、未だに、鍼は疑似科学としか位置づけていない。だいたい(毎度の愚痴で申し訳ナイが)「科学哲学」という名称は、それ自体、オカシイのだ。「科学思想」なら頷けるのだけど。「哲学」と「思想」というのはこれこそ似て非なるものだからだ。何故なら、「哲学」というのは、その原初を神学においているからだ。この研究学問の歴史の「学」の流れを「哲学」と称する。従って、それはseriesなもので、カントまでを一本の幹とすると、その後、枝葉に分かれていくツリーとimageしたほうがイイ。思想は、哲学(philosophy)のその枝葉に該るか、そこから生じていく、パラレルな位相の思考だ。・・・さて、「科学哲学」は、金科玉条のように[反証]をいう。「反証出来ないものは、科学に非ず」なのだが、では、その反証する側の科学に、反証出来るだけの研究や学問や経験の蓄積、実績があるのかどうか、これを自らに問えと、いうのが、私の考えであることは再三述べている。・・・さて、鍼について「科学哲学」はこれを疑似医学としている。その根拠は、わりにアホラシイのだが、解剖学上、経絡というものが存在しないということだ。経絡孔(そのツボ)は中医学(漢方医学のことをこう称する)では、数百あるといわれている(学派によっては数千になる)。ところで、私の考えでは、これは解剖学では絶対に発見出来ないものだ。なぜなら、これもいうとバカにされそうな単純明解なことで、経絡(孔)というものは、生体にしかナイからだ。しかも、その生体にも在るとはいえない。つまり、理論物理学でいえば、ディラックの海(陽電子の在り場所)のようなもので、生体そのものが、経絡であるのだから、特定の場所に発見出来ないのはアタリマエのことだ。鍼の経験のあるひとならご存知だろうが、鍼医者は、経絡孔を何かで測定して鍼を打つのではナイ。たとえば、肩がこって鍼を打つとする。経絡孔とは、この「肩がこる」という状態のときに[現象]しているものだと思えばイイ。だから、普段は、存在しない。ましてや死体の解剖で発見出来るワケがナイ。こういうことは、私のような素人考えよりも、専門家どうしが議論すればいいのだが、それには、前提として、互いの医学を相互に研究するという謙虚な営みが必要だ。科学哲学へのいつものたった一つの苦情は、「謙虚さのナイ学問に発展はナイ」だ。これは次のようにもいい換えられる。「自らを問わぬものに真理は宿らない」

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