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2010年5月

2010年5月31日 (月)

政治的茶番

福島大臣罷免、社民連立離脱。こういうのを茶番というのだ。で、お決まりのように、総理辞めろ、となる。総理が変わったって、どうなるもんでもナイことは、私たち大衆も承知のことだ。たとえば、福島社民党首が総理だったら、日米同盟関係、つまり安保の問題を、どういうふうに解決したのか、このオバハンは、マスコミにたびたび「生出演」されているが、ただの一言も発言されていない。おっしゃっているのは、沖縄県民の「民意」ばかりで、そりゃあ、いくら何でも、国民(選挙民)シンパシーに訴えてのエエカッコだけじゃないか。連立政権でいきましょうと誓ったからには、総理の責任は、与党社民党、閣僚の福島大臣の責任でもあるのは、アタリマエのことだ。ガキの友達づきあいでもあるまいに、罷免されてでも、与党に留まって、おのれたちの信念のもとに、粘り強く闘っていけないのか。民主党も利口とはいえないが、社民党もアホだな。『傷だらけの人生』(鶴田浩二)の歌だぜ。「η馬鹿と阿呆のからみあい」、で、漁夫の利が自民党というワケだ。ああ~あ、いやな茶番をみせつけられたな。せめて『三国志』あたりを読んでもらいたいよ。私は、中学生だったが、冒頭の「桃園の誓い」に涙したぜ。「呉越同舟」に陥る前に、何故「臥薪嘗胆」「捲土重来」と道を開けないのか。要するに、沖縄基地のことは、国民と同程度、他人事でしかナイような、一幕でした。

2010年5月29日 (土)

東京日記・ふたり芝居・1

教育には目的があるが、演劇には目的などナイ。ここが、平田オリザ氏と私どもの大きな違いだ。私どもというのは、私(北村)と流山児祥、小林七緒の三人のことである。(断っておくが、あくまで「違い」であって、どちらかが「間違い」であるといっているのではナイ)。オリザ氏の演劇とて、教育のために存在するワケではなく、教育にも活用出来るという可能性をそのlogicにしているだけだ。だが、んが、だ。手塚治虫さんが、華々しくブレイクし、漫画が花開いた頃、いわゆるPTAからは、漫画は教育上、悪いモノだという声が上がった。(この論理はいまも、教育上、悪い漫画が在る、という論理となって残っている)。このとき、手塚治虫さんは、テレビ出演の場で、「漫画はおやつのようなものだと思って下さい」と、漫画を弁護したが、本音はまったく違うと周囲の漫画家たちには語っていたことが知られている。手塚マンガをhumanismだとしか読めない連中には、その底流に流れるpessimismを理解することは出来まい。ブラックジャックのライバルにドクター・キリコという、極めて魅力的なキャラを配したのはその所以だ。・・・さて、このあたりから、じょじょに、じょじょ履いて、私たちトリオ・ザ・アンチの芝居づくりを、宣伝を兼ねつつ、披瀝していこうと思う。んなものには興味はネェ、のなら、人生の貴重な時間を費やしてもらわなくてもイイ。他人の人生なんてのは貴重でも何でもナイからな。いやあ、鬱病期がつづいているので、どうしても、書き方がaggressiveになっちゃうな。ともかく、、こういうの、ちょっとやってみるからヨロシク。

2010年5月27日 (木)

一度、座れ

道元の禅(曹洞宗)思想は、スピノザの神学に似ている。道元は「仏性」というものが、この世界のすみずみに行き渡っているものであるとして、もちろん、人間もまた仏性を持つとした。よって、曹洞宗の禅では只管打坐(しかんたざ)を最も重要な修行としていて、このコトバは道元の著作『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』でもしばしば用いられる。簡単にいえば「ただ坐れ」だ。もちろん、ただ坐るだけではナイ。坐ったとき、すでにその者は、釈迦が瞑想のために座禅したときと同じであるというのが教えで、「悟り」というものは、外から入ってくるものではなく、降って湧くようなものでもなく、すでに修行している人間の内に存在するものだから、悟るというのは、それを自覚(知ること)であるというのが、根本だからだ。つまり、仏-世界-人は、それで一つの宇宙だというのだ。スピノザもこれと同じことをいったがために(神-世界-人間)異端とされた。何故なら、カソリック(正統)では、神は神であるし、人間は人間であるからだ。と、話は飛んで、鬱病を座禅で克服した話はあまり知られていないが、要するに「ただ坐る」だけなのだから、鬱病患者にとっては、あまりキツイことではナイ。もちろん、坐り方はあるのだが(眼は薄目にして、約二間先-5~6m先を観る。呼吸は鼻先で、出来るだけゆっくりと行う。足は無理に組まなくてもいいが、組み方はある。何も考えないでいる、というのが正しいのだが、そんなことは出来ないので、何か一つのことに思考を集中させると、次第に他のことは考えないで済む)、これを毎日20~30分、実践する。目に入るものが邪魔であるならば、達磨のように、壁に向かうと、存外やりやすい。特に何かを自問して、答えを出すという目的はナイ。むしろ、何も問いかけないことがタイセツなのだ。坐るのは朝でも夜でも、いつでもイイ。眠くなってくれば、寝てしまえばいい。つまりは「意味のないこと」をやるということだ。ただ、現在の都市環境は、こういうふうに坐ることすら許してくれない。今度、蛙の声が聞こえる田舎に戻ってきたので、私も一度試してみようかと思っている。・・・政治世界がドタバタとうるさいご時世だ。国内も国外も、レミングの行進のさまを観るかのようだ。為政者も、一度、坐ってみることだ。それくらいの「余裕」をみせろよというのが、昨今の情勢に対する私の感想だ。

2010年5月23日 (日)

私たちの望むものっわ

第14期の塾生の卒業公演を終えて、簡単な打ち上げで、こっちは鬱病がひどいもんだから、乾杯の挨拶に、けっこう長々としゃべったらしく、翌日、昨日の乾杯のときの話は、めずらしく、レクチャーみたいやったですねといわれたが、ひとつには、鬱病期になると、コトバに自信がなくなって、ついつい、そのコトバをフォローするべくコトバを出し、さらにそれをフォローすべく発言をと、話が長くなるのだ。とはいえ、(そこでは、記憶は曖昧ではあるが、「書かれたコトバ」と「語られるコトバ」のことについて話したらしく)初めてそんな話を聞く、出演してくれた役者さんたちは、いつもこんなレクチャーなんですかと、興味津々だったらしい。10人の卒塾生たちが、お決まりで、一年のお礼の挨拶にやって来る。そのひとりひとりにつきあって、次は、ceremonyとして、塾生からひとことという時間があり、そのひとことにも、いちいち返答していく。さらに、まだ名残のある塾生が、いろいろ、質問に(遠慮しながら)やって来る。我が塾は、塾の期間中は、私に対しての質問は禁じられているから、それが初めての質問という、塾生ばかりなのだ。ともかく、一年を通して、酒宴を持つということは、忘年会と、この日の二度しかナイ。忘年会でも、私は早々に引き上げるので、接点はレクチャーだけだ。・・・さて、帰宅してから、晩飯のアト、ひとっ風呂あびて、ふと母親の観ているテレビを眺めたら、遺伝子で、人間の才能がワカリ、その遺伝子にあった英才教育をしている(中国だけど)てなことをバラェティでやっている。で、日本でも、アイドルになるためのキッズアカデミーを大手のプロダクションが経営していて、母親が、年端もいかぬ娘を第二第三の安室なんたらにせんとして、つめかけている。日本のさる大学の名誉教授が遺伝子の世界的権威で(話を聞くに、どうしてもそうは思えなかったが)、いい遺伝子にスイッチを入れれば、才能が開花するとのたまう。aggressiveな私は、このテレビに腹がたってきて、才能のある人間というのが、いい人間なのか。と、怒鳴りたくなってくる。これではまるで、ヒトラーがとった、優秀な遺伝子(メンデルの優性遺伝、劣性遺伝とは関係ナイ)を残すためにユダヤ民族を絶滅させようとした政策、実態と、殆ど変わるところがナイ。いっておくが、「表現」は、(あるいは表現者は)けしていい遺伝子によって生ずる者ではなく、ここにいたって「いい」とは、何が「いい」のかと、問いかけたくなる。なんだか、我々が、絶滅種のような気にさへなってきて、鬱々としたが、すっ飛んだ話で締めくくれば、「劇場法」というものが、新人の劇作家や演出家、役者たちのために、チャンスを与えてくれるものになって欲しいというのは、切なる願いだ。

2010年5月21日 (金)

思考的戦闘

たとえば、いま私には「観たいなあ」と思っている映画があるとする。ところが、その映画館に出向くことが億劫というか、しんどいのだ。映画を観るということは、辛いとは思えない。その映画館が電車に乗って幾つか先にあっても、(ここが奇妙なところなのだが)たとえ、歩いて3分のところにあっても、出かけることが辛いのである。では、出かけないで、じっとしているのがいいかというと、これもしんどい辛い。いわゆる「どうすればよいのか」という、選択の余地というのが、鬱病には与えられない。すると、そこにじっとしている自分も、出かける自分も否定してしまったほうが楽な気がする。これが、鬱病患者にみられる希死感につながっていく。たとえば、「どこでもドア」のようなものがあれば、どうか。おそらく、ノブを回してドアを開けるのがしんどく辛い、ということになる。基本的に(あくまで基本的にだが)鬱病の典型的な症例がこういうものだと理解してもらいたい。しかし、ここで指をくわえているワケにはいかない。こういう症状の根拠が心因性か、内因性か、外因性かと問うことは、あまり意味がナイ。何故なら、アトづけで当てはめるなら、どれにでも当てはめることは可能に思えるからだ。そこで、思考の方向を転じてみる。この症状がアプリオリ(先験的)なものなのか、一つの「概念」を持つものなのか。ここでいうアプリオリは、純粋なものではナイ。生命体として、その類的歴史のうちに持ち得てきたのか、ということだ。そうして「概念」というのは、この症状が、何か「悟性」としてのカテゴリーに組み入れられるのかということだ。もう少しいうと、原因の幾つかが重なって(総合して)一つのものに出来上がった(統一された)ものかということだ。前者は時間的な位相にあり、後者は、空間的な位相にある。そうすると、私が映画館に行けない理由は、そこまでの空間的(距離としての・・・この場合は1㎞も100mも観念に転化しているので違いはナイと思っていい)な疎外によるものか、行き着くまでの時間の疎外によるものなのか、ということが出来る。簡単に考えれば、この空間的な了解と時間的な了解を、正常に得られないという情況に置かれているということになる。私が欲しいのは、こういう情況に人間の精神が(心的なものが)さらされることは、何か、他に類例があるのだろうかという、ことだ。もし、類例があれば、それを一つの演繹として、この宿痾を推理していけそうな気がするのだが。

藪から棒大

鍼の診断書を頂戴に、最寄りの開業医に行く。ここは、開業1年ほどで新参者なのだが、小児科があるので、来院患者は多い。他に外科とそのリハビリがあるゆえ、こういうところは、「鍼治療」というものに対しては、まず、診断書など書かない。何故なら、それは理学診療の放棄になるからだ。しかし、いま移り住んだ私の共同体では、そういうワケにはいかない。「あそこのセンセは・・・」などという噂が広まれば、急速に患者は減るだろうからだ。つまり、「懐が狭い」「器量がナイ」という判断をされては、成り立たないのだ。経営は、まだ順調ではなさそうで、看護士が一人しかいない。私の思うところ、最低でも、ドクター付きの者と、リハビリや、他の処置のためにもう一人いる。ましてや小児科なのだから、手数は多いほどイイ。母親の話では、この1年で看護士が何人も変わっているらしいが、無理ねえなと思う。ともかく、腰痛ということにしてあるので、レントゲンを四方向から撮られたが、これが幸いして、腹部動脈に二カ所、石灰化(しこり)があることがワカッタ。動脈硬化の原因となるものだが、疲れると、腹部が苦痛なのはそのためもあるらしい。これはもう20年も前からの症状だ。幾つかの医療機関を巡って、そのむねを訴えたが、相手にされなかった。それで、鍼治療をしたが、一回で腹部の張りが消えたのには驚いた。中医学では、これをオ(この字はむつかしい病垂れで、変換できない)血(ケツ)というらしい。簡単にいえば鬱血のことだ。つまり、この時、鍼は、動脈の血の流れをスムーズにしたとみられる。三日程前から、やや鬱病の気配なので、いろいろとネットであたってみると、新薬が出ていることや、他の抗鬱剤の副作用のことなど、情報があった。雨後の筍のように、あちこちに神経内科、心療内科の看板が乱立し始めている。ただこの分野は、私の経験でいっても、かなり難物なのだ。まず「鬱病」の[概念]すら、専門医でも基準が曖昧で、もちろん、鬱病の原因も、正体も未だに不明ゆえ、盲滅法、行き当たりばったりという医者も多いのがほんとうのところだ。年間の自殺者を3万人も出している疾病の原理研究が遅れ、対症療法としての、市場を睨んだ、新薬ばかりが登場してきては、患者どころか、医師もまたふりまわされているだけの状況だ。まず、鬱病かなと思ったら、信頼出来る医師の探索からはじめねばならないという、お寒い医学の世界である。

2010年5月19日 (水)

logic

東京から帰って、首、肩、背中と鍼治療。ここは、「現代医学」の医者から診断書をとってくれば、保険が効くところなので、紹介状とともに、近隣の医院に明日行く予定。「現代医学」の中では、鍼どころか、まだ漢方薬すら認めていない医者がいるのはどうも「現代医学」のほうの研究不足と、威厳かと思うが、どだい、現代医学の[科学]である、一分野の「科学哲学」は、未だに、鍼は疑似科学としか位置づけていない。だいたい(毎度の愚痴で申し訳ナイが)「科学哲学」という名称は、それ自体、オカシイのだ。「科学思想」なら頷けるのだけど。「哲学」と「思想」というのはこれこそ似て非なるものだからだ。何故なら、「哲学」というのは、その原初を神学においているからだ。この研究学問の歴史の「学」の流れを「哲学」と称する。従って、それはseriesなもので、カントまでを一本の幹とすると、その後、枝葉に分かれていくツリーとimageしたほうがイイ。思想は、哲学(philosophy)のその枝葉に該るか、そこから生じていく、パラレルな位相の思考だ。・・・さて、「科学哲学」は、金科玉条のように[反証]をいう。「反証出来ないものは、科学に非ず」なのだが、では、その反証する側の科学に、反証出来るだけの研究や学問や経験の蓄積、実績があるのかどうか、これを自らに問えと、いうのが、私の考えであることは再三述べている。・・・さて、鍼について「科学哲学」はこれを疑似医学としている。その根拠は、わりにアホラシイのだが、解剖学上、経絡というものが存在しないということだ。経絡孔(そのツボ)は中医学(漢方医学のことをこう称する)では、数百あるといわれている(学派によっては数千になる)。ところで、私の考えでは、これは解剖学では絶対に発見出来ないものだ。なぜなら、これもいうとバカにされそうな単純明解なことで、経絡(孔)というものは、生体にしかナイからだ。しかも、その生体にも在るとはいえない。つまり、理論物理学でいえば、ディラックの海(陽電子の在り場所)のようなもので、生体そのものが、経絡であるのだから、特定の場所に発見出来ないのはアタリマエのことだ。鍼の経験のあるひとならご存知だろうが、鍼医者は、経絡孔を何かで測定して鍼を打つのではナイ。たとえば、肩がこって鍼を打つとする。経絡孔とは、この「肩がこる」という状態のときに[現象]しているものだと思えばイイ。だから、普段は、存在しない。ましてや死体の解剖で発見出来るワケがナイ。こういうことは、私のような素人考えよりも、専門家どうしが議論すればいいのだが、それには、前提として、互いの医学を相互に研究するという謙虚な営みが必要だ。科学哲学へのいつものたった一つの苦情は、「謙虚さのナイ学問に発展はナイ」だ。これは次のようにもいい換えられる。「自らを問わぬものに真理は宿らない」

2010年5月18日 (火)

帰還・開店

本日、東京から帰還。二人芝居の本づくりは順調(どころか、何の無駄もなく)プロデューサー(流山児)、演出家(小林七緒)、私、の三人で、流れるような作業。だいたい、流山児は、8割くらいは余計なことを喋るのだが、七緒が、それを、ある時はカットし、ある時はフォローしてコントロールするので、私は、その辺りに、じゃあ、こういうふうですかねと、situationとplotを組み立てていけばいい。で、最後にThemaを決める。・・・当初、ウイクリーマンションに宿泊の予定が、私たちが劇団で利用していた時代とは違い(あるいは業者が違うのか)コップ一つ置いていないという有り様。おまけに、テレビやエアコンのリモコンの電池が切れていて、冗談じゃねえぞということで、(さらに、新横浜からの出口を会社に訊ねたら、まったく逆を教えやがって、重い荷物を持って、反対の場所を1時間さまよった。土地のひとに道を聞いてみるが、新開地で判然としない。ようやくたどり着いたら、汗まみれで、次の日は10分で、駅に行けた)・・・というわけで、急遽、三日目にして、ねぐらを変える。・・・『ポピュリズム』の過去ログは、いま、一所懸命に、江戸電子組がアップしているので、少々お待ちを。明日からは、二人芝居の台本を書き始める。当初予定(まったくのことにだ)していなかったのだが、社会派ミステリを、ぐうたらにやったらどうなるかになってしまって、極めて異色でオモシロイものになった。。名古屋、大阪公演は、やることはやりますが、東京公演の日程が未定なので、まだ未定。(およそは、来年3月末スタート)

2010年5月 9日 (日)

早くも開店休業

本日より、演劇活動の再開。今日は伊丹想流私塾の面接。明日からは、流山児との二人芝居の稽古(まず台本づくり)へと突入。ともかく、やっと、引っ越しのなんやかんやは終了。というワケで、ここもしばし、お休み。おそらくこの新ブログにたどり着けたひとは、まるでロールプレイングゲームでもやったような気になっていることでしょう。当方もそれなりに努力はしているのですが、検索件数が100を超えると、表面化するらしいので、これは鼠算的な成り行きを待つのみ。・・・政治のほうは、相変わらず基地問題。これについての私の意見はすでに述べた。政府は基地受け入れを全国展開するらしいが、そんなことは、ハナッからダメなことが、またワカッテらっしゃらない。それよりも、米軍の沖縄基地が、日本の軍事的安全のためにどの程度、功を奏しているのか、この説明がひとこともナイのが不思議。アメリカ軍は、絶対に日本から出て行かないし、日本本土で基地を受け入れるところも絶対にナイ。そうすると、自衛隊強化ということになる。なってもかまわない。日本国憲法9条遵守であれば。埋め立てるのか、杭を打つのか、などと、基地問題を土建屋問題にすり替えてはイケナイ。問題は「理念」なんだから。この基地問題は、ほんとうは、9条議論にまで発展していかなくてはイケナイ。

2010年5月 5日 (水)

間違ってはイケナイ

鳩山くんは段取りが悪い。これはもう周知。支持率が20%に低下。だいたい、70%もあったほうがどうかしている。これは、カネの問題よりも、普天間基地問題でもたもたしていたせいだ、というのが概ねの見方だ。しかしな、諸君。ロシアや中国だったら、有無をいわさず、武力で以て、沖縄島民反対派なんか叩きつぶすぜ。私は、このゴタゴタを日本の民主主義の脆弱さだとは少しも思わない。むしろ、そこまで、国民は国家に対して叛旗を翻せるだけの力を手にしたんじゃないのか。鳩山くんに指導力がナイから、ということで、もっと強い指導力を持ったひとを、というのが声高にいわれているが、歴史的にみて、疲弊した第二次大戦前のドイツが求めたのもそうだったんじゃないのか。それで、ナチスは、ヒトラーは、選挙という法規に則って、政権を手にした。手続きには何の誤りもナイのだ。5月中決着なんていってないで、この問題は、もっと慎重に、時間をかけて、とことんやったほうがイイ。米軍が沖縄から出て行けばカタがつくなどという、チンケなおばはんが党首のいい分など、愚の骨頂だ。グアムにだって島民は生活しているのだ。この問題は、もちろん、北朝鮮問題(いわゆる六カ国会議まで行き着いた瀬戸際外交)とも関連しているのはいうまでもナイ。こういう機会はまたとナイんだから、カタをつけるのではなく、日本の持つ最大級の課題として、対岸の火事などと間違ってはいけない。

2010年5月 3日 (月)

新しいのはここです。北村想・・・

私のブログをお捜しのみなさま。タイトルを新たにしました。ここで、近日、書き始めるつもりです。すでに、「お気に入り」などに組み込まれた方は、あいすみません。今一度、変更をお願いいたします。  かしこ

7の由来

引っ越しにともなって、パソコンを新しいものにした。Windows7。この「7」が何であるか。私の考えるところ、七つの関門だ。基本設営から、動作環境の設定にいたって、これはまるでロールプレイングゲームの如し。経験と学習と試行錯誤。「機械は正確に間違える」から、たいていのところは汲んでくれるなどということがナイ。私の場合OASYSの親指シフト・キーボードであるために、さらに難度が増す。名古屋の元劇団員のプログラマーと電話で2時間近く相談しながらの悪戦苦闘。何しろ、説明書にはたった一行で書かれていることが、(たった一行ゆえ)当方ではナニをドウしたらいいのかがワカラナイ。『すぐに使えるWindows7基本と活用』というアンチョコを買ってきたが、ワープロ機能についての説明が一切ナイ。ワードはプレインストールされているはずだから、と、富士通の直販店に電話したり、なんだかんだとと捜しまくって、さらにそれをショートカットするのに、また、アチコチ。なんとか、ココログを立ち上げるまでになったが、さて、このブログ、ウェブの何処に行くのか、本人も知らない。連日のコマネズミのような働きで、腰痛ひどく、今朝は母親のために出張してくれている、鍼の先生についでに、腰に鍼をうってもらう。現代医学では、鍼は、疑似科学として、容認していない。すべてplacebo効果だというのだ。こういうのを、自分の眼の梁を知らずして、他人の眼のゴミに能書きを垂れる行為という(聖書には、そのようなことが書かれている)。イソップ物語においても『カエルの医者』というのがあるが、まあ、そういう類の話だ。森羅万象において、科学でワカッテいることは、ただの4%にしか過ぎぬ。つまりは、この世界の96%の現象、事態が科学では説明できずに在るということだ。科学もおこがましいことはいわぬほうがイイ。「科学哲学」などという党派は、少しは、哲学そのものの勉強をしたほうがイイ。あいにくの連休で、あちこちが休みゆえ、転居報告のハガキも印刷出来ない。しばらくは、まだ、パソコンとの格闘は続きそうである。

2010年5月 2日 (日)

北村想のなんですが

まだ始めるほど余裕がナイので、一応「覚有情」というふうで。これがどうなんのか、ね。

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