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2010年3月27日 (土)

永遠と刹那

近江商人の座右の銘は「自分に良し、他人に良し、世間に良し」だそうだけど、その血脈を持つ私が考えても、この三つを揃えることは至難のワザのように思える。この三つは、根本的には「関係」を語っているのだが、それぞれ「良かれ」と判断しての営為も、関係の前には崩れさることが多い。これをフッサールは現象学で扱ったが、それは方法論としての弁論術の範疇に含まれるもので、これを〔関係の絶対性〕という、自然の本質として捉えた吉本さんの『マチウ書試論』のいいぶんのほうが、迫力としての差は圧倒的だ。私が量子力学に魅力を感じるのは、エネルギーの最少単位としての量子(の運動)には、一切の関係性がナイということにおいてだ。ハイゼンベルクの不確定性原理は、量子(の、位置あるいは運動量)を測定する場合に用いられるもので、観測してしまえば、量子(振動)は確率としてしか扱えない。(逆にいえば、確率としては扱えるということで、これがコペンハーゲン派解釈だ)とはいえ、ここでも歴然と関係は存在していて、観測の方法と結果というのがそれに該るが、では、観測、測定されないときの量子の状態はどうかというと、これも行列式を用いた数学においては完全に記述出来る。それは「むちゃくちゃデアル」という答えなのだが、そういうことはこの欄にも何度も書いた。私たちはニュートン力学の世界に生きていることになっているが、それは唯物論的な解釈であって、観念論的には、私たちのココロの関係は、量子力学に近いといってもいいのだ。唯物論といったところで、要するに、ヘーゲルの観念論弁証法というものを、自然という物質まで拡大しただけのことであって、人間の精神だけではなく、人間の精神をこの全物質宇宙に含めて考えるだけのことで、根底的には観念論の拡張でしかナイ。(つまりは、観念・・精神が、それ自体、存在するのではなく、物質との関係を含めて存在するといっているだけのことだ)極小から極大まで、刹那から永遠まで、私たちは、その「関係」をどう「了解」するかという、ニーチェから始まった「解釈」という認識の子だ。そうして、現実は、そのような解釈に従順ではナイというのが真理であるらしい。ならいっそ、と、私は量子力学の「むちゃくちゃデアル」存在様式を選ぶ。脳は整理を好むようだが、ココロは乱調を面白がる。これだけを以てしても、人間なんてのには、先行きなんて、ほんとうはナイと思ったほうがイイ。

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