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2010年3月24日 (水)

目的と必要

何か「目的」があって生きているひとは、しんどいんじゃないかと思う。その点、私は名古屋に出てきたのに何の「目的」もなかったから、しんどいとか苦しいとか、辛いとか、そういう思いはしたことがなかった。(恋のつらさというのは論外として)べつに、いつ死んでもどうでもよかったから、30歳まで生きたときは、自分でもなんか儲けた気がしたし、48歳のとき、誕生日パーティーをしてくれたのだけど(いろいろと友人知己たちが馴染みの店で)ほんとうは、その年齢まで生きた、生活したということに対しての驚き半分と、これからまだ何年生きねば、生活せねばならないのかという鬱陶しさが半分だったのだ。だから、みなさんには悪いと思ったが、あんまり当人は嬉しがってたワケではナイ。私は一度離婚していて、そのときに私財はほとんど、慰謝料と養育費として支払ったので、残った金もなく、しかし、死ぬ理由もなく、キツイことに劇団の主宰という責任があったから、そこから劇団を終えるという「目的」を持って、劇団を終えた後は、恩義のあるひとに恩義を返して、それで57歳あたりが(というのは60歳までは無理だと思ったので)死に際かなと考えていたら、ランチデートに幾度かつきあってくれた女性に自分の父親は57歳で死んだので、どうか57歳で死ぬのはやめてくださいといわれ、じゃあ、まあ、そうしますということで、この女性とは、京都の哲学の道を歩くという純愛デートを予約していたのだが、さっさと結婚されてしまって、それも成らずじまいに終わった。私は40年、演劇をやってきたが、こいつにしても何か「目的」があったのではなく、宮沢賢治ネタでずいぶんレパートリーを書いたが、特に宮沢賢治に傾倒していたのでもなく、そうしないと客が入らないからという「必要」にせまられてのことだった。そのうち、宮沢賢治のナニかだと誤解され、(それ以前はクリスチャン作家だと誤解されていたけど、私が自称クリスチャンと名乗っていたのは、名古屋の駅前で、お嬢さんから洗礼のようなものをされた義理立てからだけなのだ)仕方なく「必要」があって、宮沢賢治の全作品を読み、研究書や解説書や評論書を読み、これまた玉石混淆だなと思いつつ、宮沢賢治について残った私の考えは、なんとまあ、生き方の甘いぼんぼんであるのかという、それくらいだけなのだ。演劇論にしても、演劇のためのナニかに「目的」があったのではなく、あまりにくだらない輩が跋扈している、その横着、傍若無人な業界に対して、こっちがアホなことをいわないよう、劇団員がそういうつまらぬ言説に取り入られないように守るため、にという「必要」があったからだ。何度も書いているみたいだが、私は「人生設計」も「生活設計」も、要するに生きることに対しての「目的」というものを持ったことがナイ。〔渡世〕は「目的」ではナイ。生きていくのに「必要」なことだけをやってきたし、これからも、そんな渡世はカワラナイ。説教くさくなったら申し訳ナイが、よく「生きる目的がワカラナイ」だの「みつからない」だのいう、まだ若いひとが、けっこう世間にいるのだが、「目的のナイ人生」ほどステキなものがあるだろうか。私は私を「必要」としてくれるひとには、相応に応えるし、私が「必要」としているひとも、存在してくれるのだから、それ以上は何も望まない。多くも望まない。多くを望まれても、出来ないことはしょうがない。私自体、何か「目的」があって生まれ出たのではナイのだから、私自体に「必要」がなくなったら、勝手に天命というものがperiodを打ってくれるだろう。

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