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2010年3月 7日 (日)

つれづれに

このあいだ『メレンゲの気持ち』に自称天才で、売り出し中の若手タレント(だか役者だか)がゲスト出演していて、五カ国語を話せるのが自慢なのだそうで、その程度の天才なら、人口一万人の町に五人くらいはいるんじゃないか、と苦笑していたら、今度は「共感力」という特殊能力があるという。最近その力を応用した探偵の登場するミステリもあるのだが、これは、相手の心情が「色調」によって観えるのだそうだ。そこで、当日の他のゲスト、大竹しのぶと、漫才のハライチをその能力で分析してみせたが、別に、そんな能力を用いなくとも、あれくらいの分析なら、私にも出来る。たとえ「色」によって、そのひとの心情が観えたとしても、それを表すには、コトバにいったん変換しなければならない。要するに、卜占と同じことだ。ハライチの漫才は、もし上岡龍太郎さんがこれを評するとしたら、「高校生レベル」のたったひとことで斬って棄てるだろう。あの程度のネタと、ネタの使い方は、witにもほど遠い。それこそ人口一万人の町になら五百人はいるだろう。・・・・天才つながりでいうと、『天才 勝新太郎』(春日太一・文春文庫)を読んだ、カンソー。私は勝新の大ファンであるから、このひとがどうしてダメになってしまったのかもたいていワカッテいるつもりでいる。天才と思い込み(ドクサというふうに現象学ではいうのだが)はチガウのだ。あんまり難しいことを書いてもしょうがナイので、一つ、例を書く。ピカソはまぎれもなく天才だったが、ピカソのスケッチブックには面白いものがあって、すべて〇が描かれている。つまり、納得のいく〇が描けるまで、ピカソは何枚も幾つも〇を描いた。勝新も納得がいくまで自分の映像(scenecut)を否定はしたのだが、否定から否定への移り方がまるでチガウ。ピカソの〇→〇のこの(→)の部分にはなみなみならない理路と経験と感性との闘いがある。ところが勝新の場合はinspirationしかナイ。と、ここが天才と、思い込みの分岐点だ。そうして、天才もまた間違えるということをピカソは知っていた。充分過ぎるほど知っていたので、次の作品に取り組むことに逡巡、躊躇しなかった。勝新は間違えるということに恐れと不安を抱いていた。なぜピカソが間違えることに毅然と出来たのかというと「天才は如何なる結果においても常に一歩進める者のことだ」という自信があったからだ。五カ国語だの、共感能力だの、要するに事務所のウリだろうけど、役者ならば、その演技において、天才性をみせなければ、何の意味もナイ。

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