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2010年2月27日 (土)

流星一打

囲碁の石は、一個しか打てない。だから最善手を考える。悪い手ではなかったが、初日までの手は緩着といべきもので、それをなおした。幸いなことに、演劇は囲碁と違って、打ち直しが出来る。この一着。ああ、なんでこれに気づかなかったのか。初日完敗の感想戦ならぬ電話での意見交換と分析で、その一着の場所をみつけた。2ステージめの昨日、観客数は約半分だったが、終演後の足どりはゆっくりとして、物販も3倍売れた。あの一着は正しかったと胸を撫で下ろす。なによりも、自分自身が納得のする、溜飲の下がる、一着だった。無駄に命削ってんじゃねえんだから。・・・浅田真央が銀メダル。まあ、いいやな、あの世界は。観客は応援してくれるし、たいてい味方だもんな。演劇はチガウ。舞台に立てば、観客席はみな敵となる。因果な稼業だな。生物の進化に目的がナイように、演劇行為にも目的はナイ。着地点が無限だから、先行きの見通し(perspective)もナイ。「生きる」ことをもって始まり、「死ぬこと」をもって終わる。菩提樹の空の流れ星と同じ。瞑想にあった釈迦は、あるとき、ふと空を観た。すると、流れ星が観えた。ここで、釈迦はフッと笑った。大悟したのだ。(というのが深沢七郎さんの考え)こっちはフッもヘッもねえ。ただし、賽の河原の刑罰でも、バベルの塔の煉瓦積みでもナイ。「人生、・・・どっちでもいいや」(「どうでもというのではなく、どっちでもなのだ」)何がどっちでもいいのか。たとえば、ここに「神」がやってきて、「私は神だ」というとする。と、私たちはいうのだ「どっちでもいいや」と。私たちの成していることが天使の仕事か悪魔の悪戯か、どっちでもいいのだ。舞台に立つ、この心地よさが理解出来たとき、自分が光速を超えていることを了解する。〔時間〕はその身から離脱する。観客は一万人であろうが、十人であろうが、たったの一人であることを悟る。そうしてそれが、自分自身であることを知るのだ。そこに石は打たれねばならない。

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