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2010年2月 8日 (月)

なおもいっちゃうが

ゲスト審査員の感想批評によると、今期『劇王』は「不条理演劇」が多かった、らしい。で、たとえそうだとして、それのどこが問題なのか、さっぱりワカラナイ。こういうところが、審査講評で私の頭んきたところだ。演劇が情況の子なら、いまとその作者とが、どういうふうな関係に置かれているのか、ひとりくらいマトモに答えてもよかったのじゃナイのか。「何故か多かったんですよね」では、プロのコトバではナイだろ。そういうのを「仲良し」というのだ。では、私はどう考えているのか。私は「不条理演劇」というものがどんなものなのかよくワカラナイから、(もし、カミュの『カリギュラ』などをそういうものだとするなら、そんな作品は一篇たりともみあたらなかった)まだしも、柄本(一日)審査員のいう「テレビからの借り物」であった、というほうが納得がいく。・・・私にいわせれば、今期に集った若手劇作家たちの作品は「〔自己否定〕から先の見通しがナイ」あるいは、そこからの方法をみいだせない、焦燥の提出だ。さすがに劇作家を自称するだけあって、何かを「否定」していかねばならないという、漠然とした意識もしくは使命感は所有しているのだ。そうして、それがまず自己に向かうのは、劇作という創造においては、アタリマエのことだ。その跳ね返りが対他になるのも当然のことだ。そのときに訪れる葛藤が「不条理」と呼ばれたり「疎外」と称されたりするのなら、そう呼ぶしかナイものだ。ただ、それをそのまま並べるので、ああいった感触の作品の羅列になる。で、あるならば、彼らの仕事は、彼ら自身の〔自己否定〕を「否定」していくことしかナイ。その作品を「否定」していく道筋をみつけるしか、自らといまを書き切る方法などナイ。それは技術論とはまったく違うものだ。登場人物をひとり減らそうが、5分のものを書こうが、まったく関係のナイことだ。そんなことは、劇王を連覇した鹿目由紀がもう作業を始めていることではないのか。いみじくもマキノ審査員が鹿目作品に対して述べた「力業」の力が、どこからきているのか、それを問題にしないかぎり、女王の連覇はつづくにチガイナイ。

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