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2010年2月 8日 (月)

腹がタツのでいっちゃうが

腹がタツのでいっちゃうが『劇王』の審査員講評が終わってから、というか、途中から腹がタツというか頭んきていたので、予選敗退者の劇作家ヒトリつかまえて、楽屋廊下で「あの審査員の講評は間違っている」てなことを始めたら、これが思わぬ辻説法になって、楽屋から若き劇作家たちが集まってきて、並んじゃったもんだから、なんだか私が集めて説教しているみたいになったけど、そりゃあ、チガウ。「あの審査員のバカヤローたちは」とたしかに私は何度も口にして、「今日審査員にいわれたことはすべて忘れてイイ」で締めくくったから、ゲスト審査員(柄本さんは加わってない。スケの都合、一日で帰ったので)にとっては身も蓋もないことをしたのだが、その柄本さんが一日目に述べたように、なんで審査員まで「仲良し」でやんなきゃならないのか。柄本明さんのいうところの「仲良し」というのがなんだったのか、ゲスト審査員も考えてみるべきことだ。・・・さて、その審査員だが、日頃から、有名劇作家、高名劇作家のお戯曲しか読んでねえもんだから、20分3人制限の若手劇作家のホンなんかまるで読めてナイのだ。つまり、戯曲批評の根拠をどこに置いていらっしゃるのか、まるでワカラナイ。要するに、自分にワカルことだけを当たり障りのナイように述べて、若手劇作家の〔拙さ〕というものと「格闘」されている痕跡がみあたらない。したがって、そこで述べられるのは、技術論ばかりということになる。まず、赤井俊哉の『変身』に『ミザリー』などというおおむかしの作り話を持ち出すのがどうかしている。いま〔変身〕というのは、どういうものなのか、何故、カフカの『変身』が着ぐるみになってしまっているのか、話はそこからでないと始まらない。サリンngロックの『ヒソヒソ』では、どの審査員もあの舞台がアパートの一室だと思って疑わない。それが、どういう喩であるのかが、命脈なのだ。そこに閉じ籠もざるを得ない作者のcommunicateの悲しさが、どこからくるのか、話はそれからだ。鏡味富美子『屋上には風が』にいたっては、「二人芝居でもよかったのでは」という、腰を抜かすような論評まで出てくる。審査員の誰一人として、三人目の登場人物がナンであるのかに触れず、何故、ハンカチがいつも水色なのかについても知らぬ顔の半兵衛だ。あの戯曲が自殺について書かれているなどというのは、まったくの誤読でしかナイ。話はそれからだ。新型のシステムだか、メソッドだか、フランスの話をしてはいけないワケではナイが(ついでにいうなら、日本人のいう「おふくろ」が、臓器であるなどというのは、 誤解もはなはだしい。日本語はそんなに野暮なコトバではナイ。と、考え、おそらく財布、巾着に由来するのではないかと判じたが、しかし、たとえ臓器だとしても、それほど忌み嫌われることなんだろうか。むしろ臓器として、よくその本質を語っているような気がしている)。ともかくとして、そんなものを百回聞くより、『役者論語』を読んだほうがいいぞ、若き劇作家諸君。とはいえ、鹿目由紀さん、三連覇、おめでとう。あれを「不条理劇」なんてのはとんでもナイ審査員の錯誤で、あんなに条理にかなった芝居はナイ。鹿目の用いた、たった二つの極めて劇的なセリフが、平塚のコントと演劇をみごとにワケテ、それが勝利の因となった。

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