書き下ろし、の作品について
昨日、大西・寺十指導の横浜んたらかんちゃら(いつまでたっても正式名称がおぼえられない)の有志公演、書き下ろしを脱稿。『悪夢くん』というタイトルだけもらって、参加人数その他の条件を待機していたのだけど、書きたくなったので、書き始めたらもうビョーキだからな。ともかく、plotがどんどん浮かんできてメモでは間に合わず、大西に電話して今回は、書いたもので、そっちでなんとかしてくれと、頼み込み(というか、恫喝し)、で、アト少しで書けるんだけど、要するに『悪夢くん』というのは、どんな作品にすれば良かったんだ、てなことを訊いて、いまさらどうなるものでもナイのだが、書き上げてから、悪夢くんの役は女性がやるのかと訊いてみると、そうだというので、そりゃあ良かった、けど、悪夢くんというのは登場しないんだ、ってナニが良かったんだか。しかし、書き上げてみると、出てないこともないし、ああ、あの女優なら演れるから、いいやと、無責任。『ウディ・アレンの影と霧』(1992)をモチーフにしたせいか、筆致が軽い。大西が大ファンのデイヴィット・リンチふうの、「なんで?」という、いわゆるoutputが殆どナイともいえる。つまり、世界がせせこましくないのだ。起承転結をつけないと「不条理演劇」といわれるみたいだけど、生きてて(生活してて)まともに起承転結なんてついたことなんてアルのかよ。無理につけようとすると、ヒロシマ・ナガサキみたいに大量殺戮の爆弾でも落とさないとしょうがナイ。キリスト(ユダヤ)教の創造主にしても、力業で、ノアの洪水やら、ソドムやら、バベルじゃないか。私たちにんげんは、もっと穏やかにいこうよ。起承転結ではなく、帰結転生てのはどうだ。山田風太郎先生みたいでいいね。というワケで、作品はウソをつかないな。と気づいたのであった。(いまごろ、ネ)
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