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2010年2月 1日 (月)

劇、その身体・07

「遺伝子の旅はつづくよ 狼との混血犬が引いていく橇(そり)」(大滝和子『銀河を産んだように』)人ゲノムの99%は、どの人間も同じなのだそうだ。つまり、残りの1%が固有のものとなる。では、この1%がDNA螺旋の遺伝子情報で決定されるのかというと、この情報はかなり曖昧というか、優柔不断に創られていて、環境によって左右されることが多いのだ。どういうことかというと、母胎の環境における情況に決定される要素だということだ。胎内の環境などというものは、そんなに違わないのではナイかと思われるが、胎内の構造や機能は同じだとしても、これが「母胎」となると、「母」という重要な関係が進入してくる。「母」というのはナニモノなのか、私にも謎でしかナイ。演劇からの逸脱ついでに述べると、人間の死を脳死とするのは、医学的な経済学と世間的倫理の錯合であって、もしこれをhumanismの問題とするならば、それなりの議論がなされて然るべきだ。臓器提供についてマスコミが話題にするのは決まって幼童であり、この幼子を助けるには、臓器提供しかなく、それには大金が必要なので、募金を、といういつものパターンだ。私は冷酷といわれようが、生後すぐに死んでしまう赤ん坊もいるし、百歳まで生きるものもいる、というのが、この世じゃないかと思っている。もし、脳死を認めるならば、そんなに脳というものが重要なパーツであるならば、生まれつき、或いは事故などによって脳に欠損のあるものは、人間として欠損なんだから、みな臓器を提供すればいいことになる。脳なんてのは演算装置にしか過ぎない、程度に勘定しておいたほうがイイ。最近流行の、「脳にいいことをする」というのが、私にはまったくワカラナイ。脳にいいことをして、脳をどうしようというのか。それが「いい脳」を造ることならば、「いい脳」というのは、どういう脳をいうのか。より優れた性能、リテラシーのあるパソコンを所有したいという願望と、さほどのチガイはあるまい。上手い演技者(役者)なんてくさるほどいるのだ。下手な役者をどうするのか、また下手な役者は、どう演劇に関わっていけばいいのか、「演劇にいい」ことだけをやっていてもしょうがナイし、「いい演劇」といわれるものが、どんな演劇なのか、私は知らない。知らないものがワカリタイので考えているだけだ。 

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