劇、その演技・14
もし、「感情の記憶」や「五感の記憶」が重要なものであるのなら、年齢(経験)を積み重ねるほどる演技力というものが増幅してこなければならない。これは奇妙なことだ。また、戯曲(の役)と演技者という者を比較するなら、役は否定しにくい。(チェーホフの『かもめ』でトリゴーリンをオカマにすることは、ともかくは出来まい)そうすると、もっとも信頼しなければならないはずの「私自身の固有性(個性)」を否定せざるを得ないのは当然の帰結だ。このあたりがなぜ、逆に変に思われるのか、それは、演劇が、いささか迷信みたいなものにいまだに依拠されているせいだ。ストラスバーグによると、「役者の存在は、その自己ぜんたい」で「その肉体、その精神、思考、感情、感覚、想像力、誠実性、意識をかねそなえたぜんぶなのだ」(『メソード演技』エドワード・D・イースティ、米村晰、劇書房)というふうに、とくに彼自身だけではなく、この国(外国の諸事情は知らんので)では、演技者(役者)の人格というものが、なにか、戯曲、脚本(scenario)の役と関係があるのではないかと思われているフシがある。これは「むかし兵隊、いまテレビ」(むかしは兵隊になると一人前だったが、いまはテレビ出演すると一人前に思われる世間の風潮をいう)といみじくもいわれている俗説にしかすぎない。だいたい(例外はあるにせよ)人格者などという者を、私はこれまで演技者(役者、その他)の中に観たことはナイ。また、そういう人間はこの業界では生き残れない。せいぜい、自分の経験(経歴)で幅を利かすか、ギャラの高低で格差を重んじるか、人気(テレビでいうなら視聴率、映画なら動員数)の多寡で威張っているか、という程度のものだ。踏ん反り返って、脚本の自分のせりふや他人のせりふにまで注文を入れてくる輩も始末に終えないが、縮こまって、稽古(撮り)がうまく進行しないのは自分のせいではないかと、ビクビクしているのも考えものだ。思うほど、たいしたことをしているワケではナイのだ。シンデレラの役をやろうが(もちろん、その王子さまであろうが)、それは物語の中だけだ。ヘレン・ケラーをやったから実力派などと自惚れないほうがイイ(譬えであって実際の女優をいっているのではナイ)。
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