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2010年1月30日 (土)

劇、その身体・06

意外なことに(なのか当然なのか)舞台(らしきところ)に立たされると、一度もその経験のナイ者は、ほとんど不安や不都合を意識しない。とくにどうってことはナイという感じだ。これは、立つということが不自然ではなく、立っていることがべつに特異な行為ではナイと識知されるからだ。なぜそうなのかというと、私たちはふだん、そういうふうに立っているからだ。ところが、演劇という枠組みと、役柄を付与されて、さて、そこ(舞台らしきところ)に立てといわれると、急におぼつかなくなる。ワークショップ百花繚乱の昨今、私がどうにも断れなくてやるワークショップの内容は、この「立つ」ということに拘った演習だけだ。たとえば、「あの壁に立ってみて」というと、ジョークのように思われるが、では、何故立てないのかとという詰問に、正確に答えられるものは少ない。「では、椅子を二つ積んで、その上に立ってみて」というふうに進めていくと、立たされるほうも次第にワカッテくる。「立つ」というのは、立っている場所が安定しているから出来ることだ。さらに、「斜め30度で立ってみて」というと、誰も出来ないことがワカル。これは「立つもの自体」が不安定であれば立てないということを意味している。そうして、演劇における「立つ」という営為は、この二つの「立つ」ことから始まって、立つという姿が、美しく(としかいえないのでそう書くが)みえないと、演技がヘタにみえるというところに着地する。究極の一人芝居である落語が、足そのものをなくしてしまったのは(座ってやるというの)は、あれはあれで、かなり合理的な発想なのだ。私が(専門ではナイが)演出において、演技者(役者)をほとんど動かさないのは、とりもなおさず、この「足」を封じることにある。演技者(役者)はとかく動き回ることによって、何か演技をしているような気持ちになりたいのだろうが、その動きの一部を封じられることによって、「楽が出来ない」と自覚し、さらに、こちとらにしてみれば、ヘタが目立たないという利点がある。

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