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2010年1月15日 (金)

ピカレスト・続々々

「耐える」ということは、道徳的にはある感動や共鳴、共感をもって受け入れられているが、かならずしも美徳ではナイ。「耐える」というのは、いってみれば憎悪を隠蔽した心的状態でしかない。「耐え抜く」というのはしたがって「憎悪の増幅」ということになる。というのが、私の通俗的美徳に対する異論だ。花田秀次郎と風間重吉が、敵役の悪行に、耐えに耐え抜くというのも、観客の私たちとともに憎悪を増幅させているのにすぎないのだが、彼らが耐えるのをやめて、その憎悪をバクハツさせるとき、一曲の主題歌に合わせて、雪の降る花道が二人のために用意されているのは、この憎悪を天誅に転換するための決意としての描写として、当然のことだ。スコラ哲学の「弁神論」は論理的に矛盾している。この世界を神が統治しているのなら、いったい大災害はナンの理由で起こるのか、という私たちの疑問について、弁神論では、神の御業は大きなもので、人間の未完成、未熟な理性では計り知れないものであるのだから、大災害においても、何か神の御業が働いているはずで、その善悪を人間の理性において判断はできない(してはならない)ということを「人間の理性」で考案しているのだから、自己矛盾に陥っているだけだ。シーシュポスは、自分に課せられた刑罰に対して耐えたりはしない。ただ、それを甘受、受諾して、黙々粛々と、岩を山頂に持ち上げるだけだ。下山の足どりは、そのご褒美でもなんでもナイ。当然である、だけだ。カミュのいう「不条理」が、「人間の存在が本質存在であるか、実存(事実存在)であるか」という問いかけを超えてしまっているのは、「いずれにせよ」というひとことでいいきれるものだ。『ペスト』における医師たちの働きがたとえ微弱で無力なものであったにせよ、医師たちは働かねばならない。大災害においても同じだ。それが神の御業であろうが、人間の存在がなんであろうが、いずれにせよ、ひとびとは黙々、粛々と、救援救助の活動をするのだ。そんな現場で「神が」というコトバを聞こうものなら、ただ、「引っ込んでいろ」と一喝するだけでイイはずだ。

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