と、いう生き方
『いま求められている問いに答える、誰もが知りたいやさしい答』というのを新作の戯曲のタイトルとして考えたんだけど、いつ、どこに書けるのか、またまったく書けないで終わるのかはワカラナイ。私はこういう優柔不断なことが好きなのだ。「優柔不断・・・やさしくやわらかく、判断、断定、断行せず」、つまりはじっとしているという、生き方の方法のひとつだ。そうすると、動くのは、私以外のもので、それが個人であったり、集団であったり、なんだかワカランかったりするのだが、そっちのほうのVektorから、追い詰められてくると、今度は優柔不断は「臨機応変」に移行する。「臨機応変・・・機に臨んで(機会chanceを与えgiftられて、その変化、変容、変転に応じる」。たいてい、人間は追い詰められるものだから、ほんとうのそのひとの生き方の姿勢、態度というのは、そのときに、真なるものとして発揮されるはずだ。それがどんなつまらない選択であっても、五万とある選択肢の中から、ひとは、たった一つしか選択を許されない。ましてや、この生存、ひととして、この時代に存在するということは、私が選択したものではナイ。さらに、それが泣いても笑っても、3年で死のうが90まで生きようが、この一回限りという、これは悲惨ともとれるし、贅沢ともとれる類のものだ。出来るならば、私は、神も悪魔も、こんなふうには生きられなかったろうという、自分なりのニンゲンらしい生き方がしてみたいのだが、どうもそれはニンゲンにとっては生き方というより死に方としてしかナイような気がする。優柔不断に臨機応変、あれっと不断のうちに生まれていたので、優柔、優柔。では、と変に応じて、機に臨み去り行くべし、だな。
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