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2010年1月25日 (月)

劇、その身体・02

「類」という概念から身体を考える手順として、「直観」というものにふれてみたい。フッサール現象学では、この「直観」を扱う。ここでは「直観」は「事実直観」と「本質直観」に分けられることになる。たとえば、いま、玄関のチャイムが鳴ったとする。この音を聴覚でとらえるのは知覚直観であり、玄関に出向いて、注文していた書籍が届いたことを確かめる視覚も知覚直観だ。この二つを事象的な感受の仕方である「事実直観」だとすると、「本質直観」が何に該るのか。鳴ったのがそろそろ来るかなと期待していた宅配のチャイムであり、届いたのが待っていた書籍であったと、その「意味内容」を受け取る「直観」だと思えばイイ。現象学では、これとは別に、「還元」のための方法としての「本質直観」もあるが、それはここでは考慮に入れなくてもイイ。演技者(役者)の舞台上での演技においては、この二つの直観(知覚直観と本質直観)を観客が観取して、認識する、というのは、まっとうな順序のようにおもえる。が、しかし、演技者(役者)の演技は、同じ役を別の役者が演じる場合、あるいは、ある重要なシーンでの、せりふも所作もナイか、極めて少ない場合ですら、演技者(役者)は評価されるし、観客はそれを観て取る。そういうことを「ここが勘どころ」というふうに、ふつうは表現されるのだが、この「勘どころ」というのはナニをいっているのだろうか。『勘の研究』(黒田亮)によると、「勘」というのは「非直観である」というふうに説明されている。「勘」というものを定義してているワケではナイが「しかとつかむことはできなくて、しかも力強く働くもの」というとりあげかたがなされている。その研究の深きに入っていくまでもなく、いまのところ私たちは、この命題で充分だ。なぜなら、演劇の身体というのはこの命題のように、しかとつかむことは出来ないが、たしかに、力強く働くものとしては、それしか持たぬからだ。そうして、この命題の心的な部分を支えるのは、たしかにそういうものが在るようだという「類」的な幻想だからだ。

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