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2010年1月12日 (火)

ピカレスト・続

「何故、ひとを殺してはいけないのか」などという問いは、キリスト教世界では意味をなさない。というか、答えはあらかじめ用意されている。「神の意に背くから」だ。誰も、ひとが死ぬことについて、ほんとうは倫理的にも社会的にも、生命体としても、どうでもいいことだと思っている。なぜなら、大事なのは、自分の死だけだからだ。たいていのひとびとは、他人の死など、どうでもいいことではないか、とさほど意に介していないハズだ。とはいえ、私の戯曲創作の弟子のひとりは、神戸淡路島震災で、知人友人の多くを失い、のち、棄教した。ほかには、元劇団員の男性は、第一子が未熟児で死んだとき、私に涙ながらに「もう俺は神さまなんか絶対に信じない」と訴えた。そうやってみると、ひとの死というものは神の采配とつながっているように判じられる。私がキリスト教に対して持っている畏敬は、ともかくも神が死んでみせたということだ。ニーチェもそのことについては言及している。「神は死んだ」と。ニーチェに対しては「ニーチェは暗い」とだけ述べたのが、チェスタートンだが、チェスタートンもまたキリスト教を(彼自身はカソリックであった)「神が神を疑った唯一の宗教」というふうに『正統とは何か』に記している。・・・前稿のカミュは、自殺について「熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない」(『シーシュポスの神話』)と述べる。無頼派の安吾もまた私の読んだ限り、二度ほど自殺に傾斜している。一度めは、ジュネの『泥棒日記』を読むことで克服し、二度目は大量の睡眠薬を服用するが、効果がなく、彼のエッセーによると、ずいぶんの量の小便をして、スッキリしてしまったとある。・・・私はあるとき、ふと黙想した。「善人や悪人などというものがこの世に存在するものだろうか」「人格者などというものがこの世にいるものだろうか」「それがひとの生や死といかほどの関連性を持つのだろうか」おそらく、暴力団と称される「組」の中にも、それなりの人格者がいなくては組はまとまらない。なによりも下の者に敬意を払われる存在でなくては、上は務まらぬ。あるとき私は新幹線の車内で、オモシロイ経験をした。その車両には、私以外には、組関係らしい服装の人々が10名くらいしか乗っておらず(それがワカッタのは、打ち合わせらしきものの内容で、次の会合に招聘する団体の名前を幾つか口にしたからだが)、さて昼飯の時間となって、配下らしき者は、それぞれ駅弁を食したが、中枢の人物は配下のものが握ったらしい大きな麦飯のおむすびを食べはじめた。「長年のムショ暮しで、すっかりこういうものしか食えなくなってな」と話すのを私は聞いた。そのアト、幹部らしい者が私の席に来て、丁寧に「もし、よろしければ、離れた席に座っている者と、席を交替してはいただけませんか」というのだ。なんとまあ、律儀に、その者は、ポツンと指定席のとおりの席に座っていたのだ。またあるとき、私は、最終近くの新幹線の指定席に座っていたことがあって、私の他にはその車両には乗客は無かったので適当に座っていたのだが、途中駅から乗り込んできた乗客が、たまたま、私の席を買っており、私を糾弾して、車掌まで呼びつけて、これだから国鉄はダメになったと車掌に怒鳴り散らす、という情況に巻き込まれたことがある。この乗客も、帰宅すれば嫁の尻の下に敷かれる哀れな夫であるのかも知れないのだ。善人だの、悪人だの、人格者だの、おそらくそういう「仕分け」をしなくなったのは、それくらいの年齢からだ。

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