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2010年1月 4日 (月)

劇、その演技・9

「役になりきる」といういいかたを、私はずっと小馬鹿にしていたが、というのも、それなら死体の役はほんとうに死なねばならぬし、殺人者の役はほんとうに殺さねばならない、と嘯(うそぶ)いていたからだ。そうはいいながら、そういう私自身の応じかたも、どこかマチガッテいるという気はしていた。次によく使われだしたのが「役を生きる」というコトバだ。これはなんだかもっともらしくて、説得力も、迫力もあるようないいまわしなのだが、ここに現れているのは「役」というものに対する無造作な配慮だ。逆にいうと、「役」というものに対する問いかけが欠落しているのだ。おそらく私を苛立たせていたのは、その問題に違いない。「役」というのは戯曲において戯作者(劇作家・狂言作家)が「書いたimage」であり、演技者(役者)からみれば「書かれたimage」だから、それ自体が、外部(環境世界)に存在するというものではナイ。したがって、あやふやなものとして考えれば、これほどあやふやなものはナイ。試しに、それを書いた劇作家にその役のimageを聞いても、また、本読みとして読んでもらっても、劇作家自身が納得するようなモノは出て来ない。いうなれば「不完全」モノとみなすしかナイ。そうすると「役になりきる」も「役を生きる」も代入して読めば「不完全なものになりきる」「不完全なものを生きる」になる。とすれば、論理的な帰結としては、「役」というものは、創るしかしょうがないのだ。そんなことはアタリマエだという顔をしている輩には、コロンブスの玉子でも進呈しておく。論理というものには、面倒な手続きが必要なのだ。囲碁でいうなら、一度に一個しか石が盤上に打てないのに、石の連なりを読んでいかなければならないのと同じだ。そのような順序でいうと、演技者(役者)はともかく一度自身を否定して、役にVektorを向け、そこからの写像(f→)を自身に向け、ここで、役を自身に取り込むという、いま一度の否定を行うことになる。この写像は循環として、戯曲と演技者(役者)とのあいだで、繰り返し行われることになる。なぜなら、戯曲に書かれた役は、それ以上の情報も表現も持ち合わせないが、演技者(役者)は、戯曲とは違うところ、(自身の身体性、サブテキスト、など)から「役」に入り込むための表現や情報をinputすることが可能だからだ。ここは、演劇が、書かれた劇から演じられる劇に分岐するところだといってもイイ。演出(という貨幣・・・『貨幣と演劇』参照)が、いつの時点で入り込んでくるのかは、決めることは出来ない。

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