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2010年1月11日 (月)

劇、その演技・16

ずいぶん前になるが、筒井康隆氏が自身の戯曲(筒井さんの小説はすこぶるなのだが、戯曲は概してつまらない)を上演するにあたって、「役者の方々は〔役づくり〕ということに一所懸命になられるが、言語感覚というものをもっと大事にして頂きたい」と、まあ、これは苦言といっていい発言をされていた。たしかに、そうなんだよなと、頷けるところだ。かつてまだ役者がやれたころ、私は全7ステージの公演で、同じ役を七つの違ったcharacterで演じたことがあるが、役づくりというものがそんなに難しいものだとは、いまのいまでも感じたことはナイ。要するにコトバは戯曲に書いてあるのだから、そのとおりに語っていけば、たいていの役者の仕事は尽くされているのだ。では「役づくり」というのはナニか、というと、どう「演じる」かという工夫らしい。この期に及んで「らしい」というのも揶揄めいているが、なんのために演じる必要があるのかといえば、「書かれた劇」を舞台にのっけて、「演じられた劇」にするため以外に理由はナイ。舞台の上に脚本を一冊ひろげておくワケにはいかないから。・・・「書かれた劇」つまり戯曲の言語は、散文(小説、エッセー)の言語ではナイ。これはcategoryの問題だ。戯曲文学として読者であることも出来るが、こと演技者(役者)として戯曲を読むということは、そこに書かれたコトバを、さも、そこに書かれた登場人物が語るようにして語るという営為に基づいている。これがどこで、舞台へ上がる「演じられる劇」へと転換、変換、変容、されるのか。くどいようだが、もう一度、順序を別の視点、べつの表し方でたどっていけば、演技者(これは舞台に関わるスタッフも同様だ)はまず、戯曲を〔了解〕(理解、把握、読み込む、取り込む、どういってもいいのだが)しようと務める。つまりこれはinputであり、演技者(役者)はここはまだ戯曲という「書かれた劇」に向き合っている。次にその役なり、戯曲全般と自身とを(スタッフの場合はその技術とを)関係づけようと務める。この「関係づけ」は〔循環-cycle〕という試行錯誤の運動だ。(この循環という概念はそう簡単にthroughしてはいけない重要なところだ)ここに「書かれた劇」と「演じられる劇」の分岐点、中間点が存在する。そうしてやっと演技者(スタッフなども含めて)は表現(output)する、具現化するという「演じられる劇」に到達する。この運動は可逆的なものであるから、循環がうまくいかなければ、了解にもどることが出来る。「役づくり」というものがあるとして、それは、書かれた役と自身とを関係づける「循環cycle」なのだが、循環がうまくいかなければ、了解に、つまりホンにもどるべきだ。というのが私の考えだが、多くの演技者(役者)は早くにホンを片づけて、演出を頼りに「役づくり」を始めてしまう。もっとも優れた演技力は、ホン(戯曲)であるのに。

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