劇、その身体・04
男の子を放っておくと、どういうワケか土や砂を掘りたがり、棒をみつけると振り回す(西原理恵子・『毎日かあさん』)というのは、誰もが経験的に知っている。私たちは、まず自身の身体に呆然とするとき、その身体全部をみているのだが、いま少しその身体を分割してみる。おそらく、子供が穴を堀り、棒を振り回すのは、前者は食物の採掘のため、後者は二足歩行によって立ち上がったときの、保身のための、進化の名残だと思われる。二足歩行をすることによって、変化したのは、まず手と足だとしてみる。そこで、この手と足を演劇の土俵で考えてみると、舞踊家などは、身体をかなり分割して、その稽古に取り込んでいるように思える。日本舞踊において、手の動き、足運びが重要な美的要素となっているのはいうまでもナイことだ。手は扇などを持つことによって、さらに強調される。この場合の扇は、手の延長(拡張)に他ならない。これは何も日本舞踊にかぎったことではナイ。もっと近い視点を設定すれば、生活祭事のうちで盆踊りの輪などに、ひょいと飛び込んで踊るさいも、やはり、そのカタチの美的な優劣さは現れる。たぶん、踊っている女性、男性は、ふだんよりも美しくみえたにチガイナイ。盆踊りの時間や空間が、男女の恋愛の場となるのは、それがハレの場で、一種の無礼講であったからという理由からだけではナイ。「いなせ」「しとやか」「あでやか」などと、その姿(身体)に対する日常からの変貌があったはずだ。そこでは、単に労働の道具でしかなかった手や足が、ナニかチガウものに変容する。これは人間に特有のものだ。人間以外の動物は、おのれの身体の変容を発見するということはナイ。この場合の「発見」は、ちがったカタチで了解し、それと関係するということだ。この手や足を創りなおすという営みは、身体全部に比してみれば、さほど困難なことではナイような気がする。しかも、手と足の新たな創造で、いかにも身体全部が変わったかのようにも、感じられるという特典付きだ。
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