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2010年1月23日 (土)

シュレディンガーの猫、への試問・続

おそらく前述の試問については、こういう反発がなされるだろう「『シュレディンガーの猫』という思考実験は、そういう意味の実験ではナイ」つまり、そういう反発をする者は、量子力学の持っている不確定性を強くいいたいワケだ。だが、このブログにも何度か書いたように、実験というものに「観測者」を考慮するというのは、正しいのか。また、考慮するのであれば、どういう位置づけをしなくてはならないのか。まず、観測者から超能力者は省かねばならない(もちろんジョークだが)。リー・スモーリン『宇宙は自ら進化した』(NHK出版・野本陽代訳)でも「量子論は、研究対象となっている系の外にいる観測者にとって、特別な役割があるように思える」とあって、観測者と実験の関係を取り沙汰しているが、量子力学の実験においては、観測者は一切その中には入ってこない。観測者が実験に影響を与えるというのは、通俗的な解釈、あるいは、学者のあいだにもはびこる錯覚であって、量子力学の実験、測定は(数学的にではあるが、そうなるしか仕方がない)観測者とは無関係に「完全に記述される」ものだ。そこで、観測者が箱の中の猫を扱う場合、観測(測定)した結果のアトの関係だけが問題となる。およそ、実験(思考実験も含む)というのはそういうものだ。単に実験のための実験などあるはずがナイ。実験(測定)の結果を踏まえて、実験をしたものが、それにどう関わっていくかが次の課題になるのは至極アタリマエのことだ。そうして、ここで重要なのは、実験は(人体実験は別にして)非人間的なものだが、実験後に関わるのは人間だということだ。ここをthroughすると、科学や技術というものが、まったく人間とは縁のないもののように思えてしまう。べつにバラエティ番組に白衣を着たどこやらの教授が現れて、風船が飛んだとか、電気がビリビリきたとか、あのような宴会芸みたいなところまで実験を貶めなくとも、実験は人間のためにあり、人間はその予測をして、結果において、また試行錯誤を始めるのだ。生還した猫を抱こうが、息絶えた猫を抱きしめようが、問われるのは、つねに人間(性)であることは自明である。

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