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2010年1月26日 (火)

劇、その身体・03

同様に「勘がいい」「勘が悪い」というのは、本質直観(意味直観)の善し悪しをいうのではナイ。なぜなら、およそ演劇における身体表現というのは、心的表出と形象表出のVektorにおける〔価値〕作用を重要視するからだ。いいかえれば、事実と意味だけが表現されるのでもなければ、それを観客に伝えるのでもなく、観客も、また事実や意味の他に、その価値を観て取るからだ。では、演技者(役者)は、その「勘どころ」(非直観)を何処で会得したのか。またそれが、観るものをして「勘どころだ」と認めさせるものは、何なのか。これを前述したように「類」としての幻想であるとするならば、それは、『劇、それ自体』で論じたように、「類」の歴史的発現ということになる。そういうふうに「勘」を措定すると、「勘がいい」「勘が悪い」のは、固有の個人史からきているといわざるを得ない。個人史からきている以上は、この「勘」という非直観は、「しかとつかむところなけれど、しかと力強く働くもの」であるに関わらず、鍛練による習得が可能なものということになる。しかし、それは、身体というものが、創れるものであるということを意味すると同時に、創りえぬものであるという、両義性を示している。個人差というものが存在する以上は、そういう両義性は免れない。私たち(あるいは演技者)が演劇における身体の問題で苦慮するときは、おそらく、この両義性を前にしての、自らの身体へのアンビバレントな思案以外にはナイ。

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