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2010年1月12日 (火)

劇、その演技・17

演劇は「総合芸術」だ、などとよくいわれるが、なにわともあれ、一曲の戯曲から演技者や照明、音響、作曲、振付、衣装、舞台美術がstartするのだから、そう呼ばれてもべつにかまわないとして、私にしてみればこの「総合芸術」というのは、総てを合わせるということで、力強い統合性を持った芸術というよりも、船頭が多い船に乗ったような、実に面倒な仕事になったことも多い。だから、私は出来るだけ、徒党を組めるような面子を保持して、いわゆる「北村組」で仕事にあたれるようにしてきた。で、教訓。芝居をつづけるなら、役者よりもスタッフをタイセツに(重要視)したほうがイイ。演技論にもどる。・・・演技者(役者)がひとりの場合は特殊なことで、ふつうは複数の役者が舞台に登場する。戯曲も複数の役どころで書かれている。そこで、「かけあい」と呼ばれる会話が複数の演技者(役者)によって行われる。この場合、せりふは戯曲にアルのだから、相手がナニを語ってくるのかは周知、承知、のうえだ。これは楽にみえて存外、難しい。演技者は最初に戯曲を了解するときに、当然のことながら、相手役のせりふも読み込むのだから、相手役のimageも勝手につくってしまっている。ところが、相手役がそのimageどおりにせりふを喋ってくれるかというと、ほとんど、そうではナイ。これは相互のことであって、どちらに責任があるということではナイのだが、どっちも自分のimageしたほうが正しい(というよりも依拠している)うえでのやりとりだ。そうすると、演技者(役者)は、相手役のせりふの感覚にしたがって、自身のせりふの感覚を引っ込めるか、相手に引っ込めさすか、いずれかを選ばねばならなくなってくる。経験者においては、そんなことはアタリマエのことだろうというふうにとられるかも知れないのだが、こういうところで、いわゆる「なあなあ」の妥協がまかり通っているのが現状なのだ。妥協するならば、妥協することについての正しい納得、が必要であり、どう正しく納得するかについて、もう少し論じられてもいいはずなのだが、たいていは、何らかの力関係でthroughしていっているのを「なあなあ」というのだ。この演技者(役者)相互の関係を唯物弁証法でいうと、「対立物の相互浸透」という翻訳に出くわす。これはナンのことなのか、読んだだけではワカラナイ。対立というのがあたかも敵対しているようなニュアンスを持っているし、相互に浸透するというのが、ワカラナイ。何がナニに浸潤していくのだろうか。私はこれを「関係の循環その1」というふうに読み替えて理解している。つまり弁証法の「対立物の相互浸透」「否定の否定」「質量(量質)転化」をすべて、自分なりに〔循環〕という概念で把握しているというワケだ。そこで、演技者(役者)どうしに生じる、対立、融合、分裂から角逐までを、この循環という概念で観ていく。

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