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2010年1月 3日 (日)

劇、その演技・8

もう少し「表現=疎外(その克服、あるいは打ち消し)」についての論考をつづける。ここはプロにおいても、世間一般の通念においても、誤解や錯綜で、うやむやにされていると思われるのと、ここをうまく通過していけないと、どうしても次の一歩が踏み出せないような気がするからだ。「疎外」とその「打ち消し」をもっとも簡単に理解しようとするならば、マルクスの『経済学・哲学手稿』の「貨幣(市民社会における貨幣の力)」を読むのが手っとり早い。この稿は、貨幣と疎外について、シェイクスピアを援用しながら書かれているが、貨幣というのを何故、ひとが追い求めるのかを、きわめて単純明解に示している。ここで、私の読んだふうにいうとすれば、貨幣というのは、私的所有にして、かつ対象として、「ものを買う」という属性において全能であるとみなされ、その能力において、疎外というものを打ち消していける力を有する。もちろん、その貨幣によってこその疎外を論じたのがのちの『資本論』であることはいうまでもナイが、いまなお、勝ち組や負け組と通俗的に名付けられるのは、貨幣の所有如何によるレッテルであり、それがまた、一夜にして転倒するのも貨幣の全能さゆえと信じられている。・・・この「貨幣」というものに着目して、演出の存在を論じたのが『貨幣と演劇』なので、興味があれば、ブログを検索されればイイ・・・演技論にreturnすると、演技者(役者)の背負った「疎外」を解決(打ち消して)くれるのは、(直接な)貨幣の力ではナイ。たとえば、醜男がイケメンを演じることは、素材優先の表現としては無理な話だ。では、というので、美容整形を受けるとなると、ここには貨幣の能力が間接的に働くことになる。演技論といえど、美容整形の話も含めてしまうのが、この論説の低空飛行だ。同じような意味合いでいうならば、本膳料理を食わなくても戯曲は資料で書けるが、演技者(役者)がそうであるかどうかは、貨幣の能力による。もちろん、資料といえど、落ちているものではナイので、いったんは貨幣を対象にしなければならない。つまり交換価値としての対象物として貨幣を扱わねばならない。これは即物を否定して貨幣という対象を手にし、さらにそれを交換する(否定する)という弁証法でいうところの「否定の否定」という営為にあたる。貨幣があるにこしたことはナイが、なければナイで、智慧と工夫によってきりぬけなければ仕方がナイ。「私を私的所有出来ない」という在り方が「疎外」として表現に本質の属性であるならば、方法としては、この「否定の否定」を試みるというのが、演技としての技術のように思われる。どういうことかというと、ここで、演技者(役者)は「私」というものを否定するというVektorを用いる。これは向きとしては「役に近づく」ということだが、通俗的によくいわれる「役になりきる」というコトバはここに根拠をもつ。

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