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2010年1月13日 (水)

劇、その演技・18

「両者のおのおのが直接に他のものである、というだけでもなく、他のものを媒介するというだけでもない。むしろ両者のおのおのは、みずからを完成することにより他のものを創造し、みずからを他のものとして創造する」(マルクス『経済学批判序説』)と、一読するとなんのことだかワカラナイかもしれないが、これが「対立物の相互浸透」と称される唯物弁証法だ。ふつうなら頭をひねる(首を傾げる)ところだが、この「両者」というのを、互いの相手役というふうに読めば、経験上、まあなんとなくは理解出来るはずだ。たぶん、理解を面倒にしているのは「直接」「媒介」というコトバだと思われる。そこで具体的にいってしまえば、ここで直接にというのは、互いに「相手役」として面と向っているということであり、媒介というのは戯曲における役を通じてということになる。ところで、それがワカッタとして、このマルクスの考えはあまりに理想的にすぎる。どうしてだか、哲学者や科学者という種類の人々は、理想的にコトバを使う。(この場合の「理想的」というのは「良いふうに」というだけではナイ。「うまいこといいすぎる」といった、そんな感じだ)。私たちはまず、演技者(役者)どうしが、どんなふうに「対立」(弁証法の概念でいうところの)しているのかをみてみる。双方のやりとり「かけあい」がうまくいっている場合はいいとして、そうでナイ場合を想定してみる。すると理由は一つしかナイ。ホンの読み方がチガウのだ。役者どうしが対峙している場合、役者は互いに演技者(役者)+「役」という存在で向かい合っている。したがって、役づくり(これについてはアトでもう一度述べる)がチガウということ、演技者(役者)としての役の了解がチガウということで対峙しているために、ぬきさしならなくなっているだけだ。私が行き詰まったらホンに返れというのは、このことも含めていっている。くどいようだが、ホンを読む、つまり了解するとはどういうことか、再度展開する。おおざっぱにいえば、ホンには、ある時間の流れというものが存在する。もちろん、登場人物がおのれのむかしを談義したり、場面が過去へともどることもあるが、それは物語の順序としての方法にすぎない。つまり時間的な方向(Vektor)をホンというものは持っている。これを「了解」するというのは、とりもなおさず、そのVektorを了解することだ。それはホンに書かれた「事象-情報」を「描写-表現」として空間化することでもある。やや難しくなるかもワカラナイが、ホンの時間(これは実時間ではナイ)を空間的に変容させて読み込むことが、了解というものの本質だと思ってもらって差し支えない。そうすると、次にやってくる「役」との関係づけはどういうものになるのだろうか。たぶん、「何かに対して、どう〔関係〕するか、について特別にに自覚された〔関係〕に入り込むときに、〔関係〕は〔ちぐはぐさ〕となってあらわれる」(『心的現象論本論』吉本隆明)というちぐはぐさを漠然と経験するはずだ。これは、書かれた劇に対する演技者(役者)の「身体」の正当な反応だといっていい。

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