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2010年1月21日 (木)

劇、その身体・0

この論考はおそらく連載というワケにはいかないような気がする。理由といえば、確固たる答や定義を持ち合わせないまま(未解決のまま)、まさに五里霧中での執筆になるからだ。なぜ、そんなに急ぐのかといわれれば、単純に時間の問題で、私には、もう10年かけて一冊の書籍を読むような怠惰で流暢な時間が残されているとは思えないからだ。・・・ともかく、私が(私たちが)「劇」において「身体」という場合、それがナニを示しているのか、いまのところを書くところから始める。「身体」というものの定義で、私がもっとも驚いたのは、たぶん三浦つとむさんの著書であったろうと記憶するが、「身体はヒトのカタチをしている」とあったところだ。これは単純にして明解だという気がした。さらに「身体はヒトのカタチをした自然である」とあったように思うが、このあたりは、マルクスの身体論だ。マルクスは、自然(環境世界)に身体を拡張させて、環界もまた、非有機的な身体とみなした。ここで「身体」は、自然界(環界)にまで解き放たれたのだが、と同時に「人間の肉体的および精神的生活が自然と連環していることは、自然が自然自身と連環している以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである」(『経済学・哲学草稿』)として、ひとつの縛りを与えた。というのも、「自然」という概念に対しては、どうしても「不自然」という観念がつきまとうからだ。よって、私たちはこの概念や定義を(こと表現においては)さらに拡張すべきだ。ここでいう「ヒトのカタチ」とは、事故や疾病、生まれつきの欠損その他で、四肢にハンディのあるもの、を含んで、脳ないしはココロ、脳そしてココロ、を含んだすべての身体を示している。そうでナイと、表現においての身体は語れない。また、そう規定することによって、はじめて、身体は表現として語れる対象となる。

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