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2010年1月29日 (金)

劇、その身体・05

身体のパーツである「手と足」を考えるとき、もっとも不思議なのことは、人間というのは、生まれてからかなりの時間を経ないと「立てない(二足歩行が出来ない)」ということだ。そんなことはアタリマエのことのように思われているが、思想哲学というのは、べつに複雑なことを考える営為ではナイ。アタリマエのことが何故アタリマエなのかを考える、いわば単純な思考の営みだ。単純だからといって簡単平易ではナイ。たとえば、昨日(1月28日)の中日(東京)新聞朝刊の一面コラム「中日春秋」では、チンパンジーのゲノム(遺伝子とその情報全般)と人間のそれとは、わずか1,2%しか違わないことを伝えている。その僅差がなにゆえチンパンジーという猿と人間をワケルのか。てなことを考えている頭脳優秀なひとも多い中で、こちとらはどうしたって、演劇における手と足について考えてしまう。たしかに、演技者(役者)において、おぼつかないのは、手と足であり、オーディションなどあった場合、参加者の手と足を観察していれば、そのものの技量は察しがつく。「足手まとい」というコトバがあるが、演技者(役者)にとって、ほんとうに足手まといなのは足と手そのものなのだ。・・・さて、人間が生まれてすぐに立てないということを不思議なことだとするならば、もう一歩もどって、そのような胎児をなぜ母体が環境世界に産み出してしまうのかということだ。有袋類にはカンガールのように袋があって胎児を守ることが出来るが、人間の場合は、これがまったくといってほどナイ。ただし、まったくといっていいほどナイと思われるのは、身体においてである。古くからの実験で証明されているように、胎児は、そのまま水に放り込むと、浮かび、泳ぐのだ。これは身体性というよりも、類的な継承性というべきものだ。胎児は、笑うし、なによりも母親の乳首に吸いつく。私にはこれ以上、専門的な部分に立ち入ることは不可能だが、胎児においては、すでに完成されているものと、未完成であってもかまわないものとが存在し、おそらく母体の判断は、「これなら産んでもイイ」というものではなく、「これは産んでしまわないといけない」という母体維持のための判断ではないかと思われる。で、どういうワケか私たちは、足と手を、固有のものとしては未完の、類的には完成されたものとしてのパーツ(&tool)として、環境世界に出てきたのだ。これを、舞台に立ったものが、まず不安に思わないワケがナイ。

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