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2010年1月 8日 (金)

劇、その演技・13

スタニスラフスキー・システムを持ち帰ってアメリカ流に構築したリー・ストラスバーグの演技術には、systemの代わりにメソード(メソッド、method、方法)という名称が用いられている。ここで主張として強調されているのは「五感の記憶」「感情の記憶」というものだが、私からいうならば、これらはすべて「悟性」として扱えるもので、とりたてて重要なものとは思えない。この「記憶」と称されるものは、むしろ「観察」としたほうがいいように思う。なぜなら、記憶は固有のものだからだ。ここで、アクターズ・スタジオの教えにそって、感情というものを演技力として用いるのは、ずいぶんな錯誤をまねくようにも懸念される。演技者(役者)はその「役」を演ずる場合に、ことせりふを音声として発する場合、どうしても、音声に感情を塗布(付加)してしまう。これには理由がある。そうしたほうが、演技者(役者)自身にとっては、手応えがあるからだ。くだけていうならば、演じているという実感がするからだ。私たちは「個性」というコトバをあまりに無前提に用いている。(このコトバは否定的には「個性的な顔ですな」てなぐあいに、揶揄するときに、苦笑いを含めながら使われもするけれど)。いってしまえば、各人に各様の個性があるのは、アタリマエのことだ。記憶の固有性をどう使うかは演技者(役者)の演技力のひとつにしかすぎない。バルカン星人でもあるまいし、感情の制御(control)など、そう出来るものではナイ。また、他人の感情など、たぶん、私たちは観たくもナイ。もし、感情を刺激する必要があるのなら、それは、演技者(役者)のではなく、観客〔の〕だ。能楽の面(おもて)が何のために存在するのか。観ようによって、如何なるようにも観える、というのは通俗的な解釈で、能面の目的は、演技者(役者)のあらゆる感情面を封じ込めるために存在する。そこでは「個性」というものは排除される。演技者(役者)は個性(固有性)というものをいったん棄てなければならない。なぜなら、個性(固有性)へのこだわりが、もっとも疎外されるものに近いからだ。

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