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2010年1月11日 (月)

ピカレスト

これから記すことは、すでにスコラ哲学などでは慎重に考察ずみのことかも知れない。あいにく私はその方面には詳しくナイので、多くは知らない。スコラ哲学は教養程度でいうなら、「神」の哲学だが、その存在の有無を問うものではナイ。スコラ哲学では「神」の存在は前提となっているからだ。だから、「神」とはどういうものかを哲学する学問だ。私が知っているのは、神学にアリストテレス哲学が融合したものだということくらいだ。・・・あるとき、私はぼんやりと思考したことがある。「もし神が存在するのなら、悪魔も当然、存在しなければならないはずだ」これが第一命題。「もし神が全能であるのなら、神は無神論者で在るという存在にもならねばならない」これが第二命題。「もし神が善で悪魔が悪ならば、人間の営為(の責任)は善は神に、悪は悪魔にゆだねられることになるので、人間には本質的に責任というものは存在しない」これが第三命題。・・・私はまたあるとき、漠然と考えたことがある。「この人生というものが、創造主のギフトであるのなら、死というものに向っての道程は、いいかえれば〔刑罰〕のようなものだ」「生まれて死ぬまでの時間の中になんらかの生きる目的を見出せないならば、人生を支配しているものは虚無である」・・・まだ実存主義の残存があった頃(高校生あたりだったか)、私はサルトルよりも、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にだけは影響された。〔真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのだ〕から始まり、ガリレオの例を持ち出して、彼が火刑より自身の信念を棄てたのは賢明であり、地球と太陽と、どちらが中心かなどは、取るに足らぬことであると論じ、おのれを殺すとは「苦労するまでもない」とと告白することだ、といいきる姿勢には、震えたものだ。この震えは、生活者となったいまでも、「〔生活に〕苦労するまでもない」といってしまえば通用する。原口統三の『二十歳のエチュード』は自作『ヴァイアス』によっていちおう越えることは出来たが(これも積年の課題だった)、カミュの投げかけた課題は、近年いよいよ増していく。・・・私たちの〔生〕において、それがシーシュポスの刑罰のごときものであるとしたら、カミュの描いたシーシュポスと同様に、下山するとき、転がって麓に落ちて行った岩をみながら「いいんじゃないの」とひとこといいたいのも、同じだ。刑罰は岩を麓から山頂に持ち上げることで、下山するあいだは、解放の境地にある。なかにし礼『時には娼婦のように』では、~ばかばかしい人生よりばかばかしいひとときがうれしい~と歌われる。たしかに人生はばかばかしいものだ。とはいえ、前世紀の中国(たとえば殷王朝)の奴隷のように、妲己によって考え出された悶死必絶の刑罰で虫けら以下に殺されることもナイ。あれも人生なら、これも人生。どのみち贈与であるのなら、虚無に供物をささげるごとく働きもするし、虚無に抱かれて眠りもすればイイ。善悪は神と悪魔にまかせておいて、こっちは無責任を決め込むだけだ。シーシュポスもまた、下山するとき、その責任の無さに、足どりは軽かったにチガイナイ。

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