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2010年1月 7日 (木)

劇、その演技・12

「演技」が現実性であるのに比して、「演技力」はそれが抽象的であるゆえに可能性であるといってもイイ。この演技の現実性は、役の虚構とは関係ナイ。腹も減るし、喉もかわく、動けば汗ばむ、息が上がる、といった現実性だ。演技力はそのまま表現されるものではナイから(表現されるのはあくまで「演技」だ)演技者(役者)のpotential energieとして存在するゆえ、可能性としてみていいが、それがすべて可能であるという保証は何処にもナイ。これは食ったものがみな栄養になるとは限らないのとまったく同じだ。したがって、非可能性、不可能もまた抽象的には演技者(役者)に取り込まれる。ここで、おそれを知らずに深入りするとして、歌手といわれる人々(もっと具体的にいうならジャニ系の若いひとなど)が、いわゆるうまい演技をみせるのは、なぜだろう。彼らは演技の勉強、学習などまったくしてこなかったのに、簡単に「役」を演じてしまうようにみえる。それはもちろん、この稿の論理展開でいえば、演技力があるからに他ならない。演技力は役者だけに備わるものではナイ。それだけで充分のように思うが、さらに詳細に述べるならば、歌手たちの聴覚というものが、優れているからに違いない。この聴覚は、譜面の読めない現在の歌手たちが、どうしても持ち合わせなければならない、一種の鍛練された技術だ。聴覚はアナログな情報だから、歌いはじめたら後戻り出来ない。これは瞬時に場面に適応していかなくてはならない演技力としての能力と同じだ。役者の多くが、積分的に役づくりというものをしていくのに比べて、歌手の人々は、微分的に役づくりをしているはずだ。ドレミのドの音は必ずドの音なのだ。ミファソがあってのドの音ではナイ。「俺さ、好きなんだよ」「あら、私もよ」というせりふのやりとりがある場合、役者はそれを積分して(さまざまに積み重ねて分類してといったらワカリヤスイ)判断した結果を演技として表現するが、歌手の場合は、その一瞬に生じた感性だけを信じるという微分(自分と役の接点を限りなく縮めていくという微分方程式)という方法をとっている。これは、伴奏される音楽と歌手との関係から会得したものだ。曲が♯すれば♯するしかナイ。♭するのはマチガイだ。これを聴覚として演技力とする。これは、演技者(役者)が、戯曲、シナリオ、などを視覚(デジタル情報)としてinputするのとは違う。デジタルが新しくて、アナログが古いなどということは通俗的な迷信にすぎない。形式的には、戯曲はデジタル(視覚的)なものだが演じられる劇はアナログ(聴覚的)なものだ。形式的と冠をつけたのは、心象表出と形象表出におけるimageは必ずしもそうではナイということに配慮してである。

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