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2010年1月 1日 (金)

劇、その演技・7

「疎外」というコトバを今後も用いるだろうし、「表現=疎外」という等式に戸惑う読者も多いはずだ。「疎外」は、もともとはヘーゲル哲学の概念だ。ヘーゲルは人間の理性が思い通りに社会や自然に通用しないことをそう称した。ところが、フォイエルバッハはその理性そのものが思い通りにならないものだとして、それを疎外と呼んだ。これを継承して、マルクス-エンゲルスは、疎外の要因を社会に求めたのだ。ところで、私がこの論考で「疎外」というとき、それは人間という自然のものが、非自然として営為する場合に(といっても、ふつうそうなのだが)「私なのだが、私でcontrol出来ないもの」(これはたとえば脳や心臓などはそのたぐいだ)あるいは、私でありながら、その私が私をもっとも動きにくくしてしまう、といった縛りのようなもの、思いつつ、その思いが私にも他人にも伝わらぬもの、といったふうに用いられる。植物はナニも思わない。石も思考しない。水も流れるだけだ。ここに、この自然に疎外というのはナイ。ただ、非自然の生命体だけが、この疎外を背負うことになった。したがって、仏教(とくに禅宗)などにいうような「あるがまま」などという境地はまったくの蒙昧でしかナイ。そんなことは本質的に人間には不可能な営為だからだ。表現が疎外であり、その疎外の克服であるというのは、人間にとって表現は、ココロの自然な表出であるのに、それを成さんとすると、「いいたいんだけどいえない」という事態に陥るしかナイということと、さらにそれを越えていこうとする意思をいう。よって、ウィトゲンシュタインのいうごとく「語りえぬものには沈黙」などしていられないし、言語世界の限界が人間の限界などではナイ。それは限界ではなく、制限だ。制限は越えていける。それはあたかもニュートンが、ひとは無限にいたることは出来ないが、その方法(極限)を知っていることを発見したのと同じだ。ことは数学にも及ぶ。ゲーデルの第一、第二不完全性定理によって、数学の不完全性はあらわになったが、数学はものごとを考える優秀な武器であることは否定されていない。完全なものは完全を求める必要はナイ。それは、不完全なものに許された「その先」への希求だ。別稿にしようと思ったが、ここで横道にそれると、道元の至った世界観はスピノザのそれと相似形だ。仏性はこの世界そのものだから、正法(悟り)というものが逆にワカラナイ、ひとはみな仏の世界に在る、それを理解するために修行するのだから、修行はすなわち、悟りと同じである、という論理だ。しかしながら、ここで諫言、辛言しておくと、禅宗やその他の仏教もまた然りなのだが、人里を離れて、山奥や隠遁で得た悟りなど、ただのカッコウづけにしかすぎない。町や市場(いちば)に出て来れば、たちまちにして、霧散する。悟りなどというものは、自らが置かれた、その場所で得られぬかぎりは、なんの価値もナイ。そういうことがわかっていたのは、浄土真宗の親鸞と、臨済禅の一休だけだとしか、私の狭い学問の範囲ではいいようがナイ。・・・悟りなどには縁のナイ私は、本年も、ただコツコツと、この論考の作業をつづける。

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