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2010年1月15日 (金)

劇、その演技・20

「反復」というものを図式で考えるとワカリヤスイかも知れない(かえってワカリニクイかも知れないけど)。実数と虚数でつくられた複素数平面を思い描けばイイ。この場合、実数を実時間というものにすると、複素数平面で与えられたVektorが、反復を示していると思って差し支えない。「反復」はハイデガーがキェルケゴールから引っ張ってきたものだが、ヘーゲルの弁証法においても、運動の形態として論じられている(そこには、いまは立ち入らない。ただ、唯物弁証法が「虚数」をどう扱うのかは、一度聞いてみたい気はするけど)。実数には時間の矢が存在するので、時間は実時間として前に進むが、複素数平面においては、いくらでも時間の反復が可能であるように思う。(このあたりは、数学者にいわせるとマチガイかも知れないが、概念的には、私はそういうふうに話をすすめる)もちろん、反復もimageの世界をもつが(これを観念のといってもいいし、思考のといってもカマワナイけど)対象識知のあるかぎり(つまり、相手役との対立、対峙があるかぎり)、演技者(役者)は相手役(それが複数である場合も多い)との、演技の行使のさぐりあいのようものから演技を創っていかねばならない。これは俗に「いき」とか「間合い」とか称されるが、もはやimageとはチガウ。日常と異なっているのは、相手役も自身も、ともに、現実的な言語を発していないということだ。「書かれた劇」としての「せりふ」は音声という聴覚として、両者のあいだを行き交う。そうして、ここでも、演技者(役者)の経歴や、経験年数や、人気度や、果ては所属事務所の力関係においてまでも含めて、ある「権力」によって、カタがついてしまうのだ。もちろん、演出家に裁定をゆだねるという行為や、「みんなで」話し合うといった共同制作という民主主義も顔を出すこともある。それは単純に方法論のチガイでしかナイ。ただ、ナニが欲しいのかというと、ある「客観性」が要求されているのだ。もっとくだいていえば、対立する(対峙する)両演技者が、互いに納得する妥当な答えが欲しいだけなのだ。これは単純ではあるが、現場仕事(稽古)における、もっとも面倒なところだ。そこで、私にいえることは、ともかく、どういう方法でどんな答えを出したとしても、それが正解であるとはいえない。というはなはだ、無責任なことになる。ただし、この無責任さ、未完成さには、創る側は責任を負わねばならない。その筆頭が演出家だ。なぜなら、演出というのは演技力(演技が対象化されたもの)なのだから。対象化されたものの価値を上げていくしか稽古の意味も目的もナイのだから。

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