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2010年1月 6日 (水)

劇、その演技・11

拙稿(ブログ参照)『貨幣と演劇』においては、「貨幣」というものを「演出」というものに置換してみた。私の未熟さもあって、いささか難解な論考だったかも知れない。ただし、私の中ではスジは通っている。演技者(役者)に演出が必要なワケは、前稿に記したように、それが、あたかも貨幣のようにして、疎外の打ち消しとなるからだ。この点は先にまわして、演出というものに触れれば、論理の進み方としては、それは「演技の対象化=演技力」の外からの力ということができる。したがって、演出というのは「演技力」への扶助、援助、生産に加担するVektorであるといえる。もちろん、演出そのものを表現であるということは出来る。ただし、それは演技表現とはまったくチガウものだ。これをはき違える、あるいは気づいていない、または錯誤している、なおかつ無知である演出家など、数多、存在することはいうまでもナイ。そういう者たちは、演技者(役者)に対する指示、方針、感想、批判、を、演技指導というものと勘違いしているだけだ。そういう演技指導などはあってもなくても、演出家の趣味の域をこえるものではない。また、悪しきは、単なる権力として働くだけだ。演出というものは、演技力として、演技者(役者)の演技の対象化されたものだということは、知っておいたほうがイイ。ここでも、演技者(役者)と演出家のあいだには、循環が生ずる。これを弁証法ととらえても、反証主義ととらえても、現象学的な還元ととらえても、いっこうにカマワナイが、いえることは、この両者の合力が、必ずしも良き方向に向かうとは限らないということだ。それは一つの前提として、覚悟するか、諦めるか、するしかナイが、手筋をさぐっていくことは可能だ。稽古というものは、そのために存在する。

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