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2010年1月10日 (日)

劇、その演技・15

「戯曲(における登場人物=役)を批評的、批判的に読んで、感情移入をしないこと」てなふうに語ったのは、ブレヒトだったと思うが、私はこのひとには何の影響も受けていないのでたしかなことはいえない。ただそれが、「つまんねえ役だな」とか、「くだらねえホンだな」という読み方なのであれば、そういうことは、いわれなくてもフツウに出来ることであり、唯物弁証法を演劇理論に導入したかどうかなどという問題ではナイ。つまらない役なら降りればいいし、くだらないホンならやめればいいだけのことだ。それでもやるのは、おそらく演技者(役者)の経済状態の問題でしかナイ。ただ、やった以上は、毀誉褒貶、羨望蔑視、というこの難しい四文字熟語には耐えねばならない。劇作家の本谷有希子が、中日(東京)新聞の朝刊(いつだったかナァ)で「群れるより孤高を」てなことを声高に述べていたが、えらく古くさいことをいう若い劇作家だなあと、拝読した。彼女が劇団というものをつくらないのは、孤高でありたいということより、面倒を避けたいだけのように思う。戦国の武将は孤高だったから、憧れのマトになる、というのも、大きな錯誤だ。軍団を率いる長が、孤高なんてことを考えるワケがナイ。孤独というものは、資本家であれ、労働者であれ、金持ちであれ、貧乏人であれ、男女の性別、国籍を問わず、猫にも犬にも、天下分けへだてなく存在するもので、そうありたいからそうなるものではナイ。彼女のいう孤高というものが「私だけは、ほかのひととは違うのよ」という類のものであるなら(そんなふうにしか読めなかったが)、生涯、それに耐え抜けばいい。年取ってから「若いころは私もとんがっていてさ」なんてことはぬかさないでもらいたい。「群れる」というのは案外(少なくとも彼女が考えるより)難しいことだ。西村晃(『水戸黄門』二代目、第13シリーズより)は集団での演劇を「徒党を組んで悪事を働くというくらいの意気込みでナイと出来るもんじゃナイ」といっているが、私は経験的には、そのコトバに首肯する。とはいえ、本谷のいうように、孤独の高みというのもワカラナイでもナイ。ただし、これは拘泥すると、キチガイになるおそれが多分にあることは否めない。・・・ひとのことは、それこそ置いといて、戯曲を読むという営為から演技は始まるのだが、それが何のためにかといえば、「書かれた劇」を「演じられる劇」に転換、変容するためになのだが、私たちはいままで、それを個人的な演技者の営みとして扱ってきた。ところで、多くの場合、演劇というものは、複数の役者で成り立っている。では、自分以外の演技者のことを、どう勘定に入れればいいのだろうか。

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