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2010年1月24日 (日)

劇、その身体・01

脳というのは、たしかにものを考えているのだが、脳は脳のことをどう考えているのだろうか。というのも、私たちが、脳のことを考えたとき、その脳は「脳によって考えられた脳」というところから永久に、はみ出ない。ということは、私たちが脳のことを考えるとき、考えられた脳というのは脳によって考えられたimageということになる。そこで、他者が私の脳を調べたりして、あるいは多数の脳を調べて分析し、統計をとったりして、脳というものはこういうもんだよというワケになるのだが、それはどうしても、私の脳ではナイのだ。同じことが、私たちの身体(カラダ)にもいえる。身体が、マルクスのいうように、自然の一部であるというのなら、私たちは自然を対象として観察、了解、関係するように、自然としての身体ともそうすることが出来るはずだ。ところが、そうならないのは、まず、私たちの身体というものが、そこにある現実性としてと、私の脳によってimageされている可能性としての、二重性を持っているからだと思われる。演劇における身体は、もちろん、この現実性と可能性としての身体にさらに働きかけて、ある虚構の身体を創るということになる。この手続きの複雑さ、面倒臭さ、錯綜したごっちゃごちゃが、演劇における身体(論)を難しくしているのだ。つまり、半分は先験的なものだが、半分は作為的なものだ。演技者(役者)は、視覚的、聴覚的(時間的、空間的)に、自らの身体を捉えていくのだが、前提として、それが半ばimageされたもの、半ば現実のものという制限を受けるため、いわゆる客観の拠り所を定めることが出来ない。さらに、創りあげた虚構の身体(=役)は、観客の固有の視覚と聴覚にさらされるという運命にある。ごっちゃごちゃというのはこのことだ。このごっちゃごちゃから、救済されるためには、私たちは、「類」という概念(共通規範、共同幻想)の普遍性を信じる他はナイ。 

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