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2010年1月18日 (月)

無我になるのもたいへんなのだ

実存主義の旗手であったサルトルも、70年代になると落ち目になり、晩年は印税(といっても、ふつう労働者の半分程度)と近所に住むボーヴォワールだけが頼りで、レストランにもよれよれのボロボロという着衣で現れていたそうだ。葬式の費用もなく、80歳には無一文になるという零落ぶりだったという(山田風太郎『人間臨終図鑑・Ⅲ』より)。実存で自由に生きるというのもたいへんだが、そうかといって、釈尊の説いた「無我」という生き方もかんたんではナイ。釈尊は「我執」を棄てて、他者(他人)との関係は慈悲であると、いいたかったのだろうが、慈悲という理のワカラヌものに対しては、豚に真珠、猫に小判が関の山だ。だいたいにおいて、東西を問わず、哲学者、宗教者、思想家の考えることは楽観にすぎるきらいがある。ヘーゲルの「絶対精神」も、キェルケゴールの「絶望の絶望」も、マルクスの共産主義も、バクーニンの無政府主義も、ハイデガーやサルトルの(一緒にすると、それはチガウと、いわれることは承知で括ってしまうが)実存も、世間に対して甘すぎるのではないかというのが、私の実感だ。「私の未来など知れたもんだからどうでもいい」てなことをいっても、「あんたはどうでもいいけど、こっちはどうなるのよ」というのが世間であり、たぶん、私の関係している「関係者諸氏」なのだ。せいぜい、そういわれないように努めてきたのだが、私の知ってることなんざ、氷山の一角で、没個人的に仕事や生活をしてきたワケではナイので、なにごとも思い通りにはならない。我を通しても我を無くしても、似たようなもんなのだ。「おまえだけが生きているんじゃないんだよ」とは、子供の頃から躾けられてきたコトバだが、これは「諸法無我」をいっているのではなく、真逆のことをいっているのだ。かくて、不可避にひとはひとに加担し、偶然にひとは世界に関係させられ、要するに路頭に迷ってしまうので、それなら、籠もっていたほうがいいやと、扉を閉じるというワケだ。「人間は青年で完成し、老いるに従って未完成になってゆき、死に至って無となるのだ」(山田風太郎)、シーシュポスが山頂に押し上げた岩が転がって、麓のなんだかをつぶしたり壊したりしてしまうことがある。おそらく、下山のさい、もし、一点でも憂鬱なるところが彼にあったとすれば、そんなぶぶんかも知れない。

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