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2010年1月 5日 (火)

劇、その演技・10

高校生のころは、「概念」というコトバがなんのことだかもワカラナクテ、難渋した。先輩もまた首をひねるのだった。面倒なことをぬきにしてその意味をいっておくなら、単純に石は固体であり、水は液体である、ということにすぎない。それ以上は学問分野における諸々の共通認識となるので、踏み込んでも仕方がナイ。ところで、「その意味」と書いたが、この「意味」というコトバの意味もまた、単純に共通規範として使われる場合や、言語の「意味」を規定するものとして「創られたカタチに結びつき、そこに固定された客観的な関係」(三浦つとむ『日本語というのはどういう言語か』)や、ソシュール言語学において「ほかのものがそれではないという差異」などがある。「形態」ということになると、たとえば「山」は文字であるが、これを△として、それに山という意味をもたせれば、それが形態だ。これは「川」を〓と決めればそうだし、「音波」を~とすれば、それでいいのだが、誤解されぬようにいうなら、形態は記号のことではナイ。記号は単純化されているが、形態はそうではナイ。たとえば、神社のしめ縄もひとつの形態とみることが出来るが、それは記号ではナイ。もちろん、記号論者によれば、すべては記号であることになるのだが。・・・意味に、価値という概念を対置させたのが、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』における「指示表出=意味」と「自己表出=価値」であり、この発想はマルクスの『資本論』の、相対的価値と等価価値の分別から得られている。ということで、私のいう「心象表出」と「形象表出」も、そこにヒントを得たものだ。でと、この論考の最初に「演じる」と「演技」とは違うことを述べたが、それを拡張させて考えると、「演技」と「演技力」は違う。もちろん、ここでは実力の差をいっているのではナイ。マルクスが「労働」と「労働力」を分けたように、それを分けてみる。マルクスはこの二つの違いから「剰余価値」を導き出し、資本家による労働者の搾取を指摘したが、それはここでは、考えなくてもイイ。ここでは「労働力」のほうに注目する。「労働力」というのは「蓄積され・対象化された」労働のことをいう。これを「抽象的労働」といい、商品価値はこの労働力によってその多寡が決定される。貨幣も商品であるから、簡単にいってしまえば、賃金というのは「労働」から生まれた(対象化された)「労働力」としての結晶のようなものだ。これを演劇に置き換えると、演技力というのは、自分自身がつくりあげたものではなく、他の多くの対象化された生活や表現を資料として自分に取り入れたものだ。演技者(役者)は、この「演技力」を用いて「演技」(マルクスでいうと「労働」に該る)するのだ。だから、美容整形で顔を変えるのも、演技力であるといって差し支えはナイ。戯曲と向き合いながら、その写像を循環させるのは、演技力を行使して、戯曲を読む、読んだもので役を創るという営為に該る。これは循環であるから、スタニスラフスキー・システムの追従者(久保栄)のいうように、まず「役の内面を体験する、自分向けの仕事」があって、次に「体現の過程における、自分向けの仕事」があって、さらに「役向けの仕事」というふうに、演技者(役者)の営為はscalarや順序ではナイ。あくまで、それはVektorであり、写像のcycleだ。つまり、ニュートン力学でいうように、速さや加速度がなくても、向きがあれば「力」となるように、演技力というのは、対他(環境世界からの-戯曲もそれに含まれる-input)と対自(自分自身の、心身、音声を自分自身にinput)と方向を変えながらの即自(自分自身を役に創り上げる)力であり、演技者(役者)はそれを演技として表現(output)することになる。ここで、運動の第二法則に倣っていうならば、「演技力=素材×循環」ということになる。掛け算であるのは、演技力が微積分の要素を持つだからだ。と、形式的にはこれでイイのだが、この演技力には例によって「疎外」がつきまとう。おそらく表現(output)されるものが、疎外されたものであるのは、このへんにその原因がある。

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