無料ブログはココログ

« ピカレスト・続々 | トップページ | ピカレスト・続々々 »

2010年1月14日 (木)

劇、その演技・19

たぶんタイセツだと思われることを二つ述べる。一つは演技者(役者)が戯曲を了解しようとしておこなうことだが、戯曲という文字で書かれているものをコンピュータのようにそのまま識知することはナイ(余談でいえば、そういう点でチョムスキー生成文法というのはアヤシイ)。必ずimageとして捉える。これは唯物弁証法では、観念による二重化と称されている。二重化されるというのは、観念世界が実世界とは別に一つつくられて、自身も世界も二重になるということだ。このあたりまでは、唯物弁証法のお世話になってもカマワナイ。ただし、その世界はほんとうではなく、(あるいはハイデガーのいうような本来的時間性がほんものではなく)時計で計れる実時間が真実の時間であるというのは、唯物論の誤謬だ。というより、そのような時間性は、そのものの真贋を論じてもしょうがナイ。(また余談だが、科学哲学と称する宗派が科学以外には真理を認めないというのも一つの迷信にすぎナイ)・・・さて、関連してアト一つ。演技者(役者)は戯曲の了解や、関係づけにおいて、必ずimageによって、自身を二重化し、その世界に参与させて、世界を吟味、観念的に体験させていくのだが、これは、演技者(役者)と戯曲との一つの循環(cycle)だ。関係づけにおいて、演技者(役者)は戯曲世界に入りまた自身の身体にもどりを繰り返す。ここから「演じられた演劇」へと入っていくときに、稽古という時間がある。このときに演技者(役者)の営為するのは、単なる循環ではナイ。相手役を含め、演出を含め、ある戯曲世界を具体的に立ち上げるための〔反復〕と称されていい循環を営むことになる。いったい何のために稽古なんざするのか、よくワカラナイで、せりふだけを暗記しているやからは、よくおぼえておいたほうがイイ。戯曲との了解や関係が可逆的なように、稽古における時間も可逆的なのだ。ここが、「時間の矢」を持つ科学と表現のチガウところだ。もちろん、実時間として、本番まで後何日という時間の矢もあるにはある。しかし、稽古時間という循環は、「反復」する(というかさせねばならない)。ここで反復というコトバの定義をいっておけば、それは「過去の時間にさかのぼって、それをとりあげなおし、意味をあたえなおす」ということになる。実時間においては、過去は喪失、忘却されるものだが、稽古時間において、それは、つねに先に進む手立てとして活用される。何のためにか。演技の価値を高めていくために他ならない。

« ピカレスト・続々 | トップページ | ピカレスト・続々々 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/48351301

この記事へのトラックバック一覧です: 劇、その演技・19:

« ピカレスト・続々 | トップページ | ピカレスト・続々々 »