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2010年1月14日 (木)

ピカレスト・続々

「俳優は滅びやすいもののなかに君臨している」「あらゆる栄光のうちで、もっともひとを欺かぬものは、栄光それ自体を生きている栄光である」(『シーシュポスの神話』「劇」)と、カミュはそれこそ手放しで、演劇に賛美と羨望のコトバを繰り出す。なぜ、カミュがこと演劇に対して(自らも劇団を組織して戯曲も書いているのだが、私はここで、カミュの戯曲についてを云々いおうとしているのではナイ)、一章を設けて論じるほどご執心だったのかは、憶測するしかナイが、おそらくは、その俳優の生き方が、舞台の上だけのものであるという宿命に、感動を余儀なくされていたのではないだろうか。たしかに、俳優は、カミュのいうように三時間の舞台を終えれば、何処かの食堂で食事をしている存在だし(いやいや、居酒屋で、口説いた女にふられて、やけ酒で酩酊しているかも知れない)、最近では、マスコミの要請で、舞台を降りたアトの顔さへ創らねばならず、下半身に人格はナイなどともいっていられないのだが、まあ、それは趣味それぞれとして、カミュのように臆面もなくいわせてもらえば「演劇は青春であり、それゆえに、齢を経た演劇はnostalgieであるべきだ」。と私は最近になって思うようになってきたし、ついでにいうと「革命とはノスタルジアの表現である」(レイモン・アロー)という、若い日、ペンで線を引いた「故事名文句辞典」を先程も確かめたばかりだ。たしかに、フーコーのとらえたように、マルクスの哲学はヒューマニズムなのかも知れない。(というふうに、私は理解しているのだけれど、誤謬かどうかは気にしないですすめる)とはいえ、サルトルが、自らの実存主義こそは、マルキシズムの人間部分を補うところであると明言して、マルキスト宣言をしたのに対し、カミュは、不条理というのは自然に対しての人間の理性との関係の本質だと、どこかで疎外概念と重なるようでまた、まったくチガウような、曖昧ではあるが実感があるという理念を置き土産に交通事故で世を去ったのは、ニーチェが晩年の10年を精神病院(脳梅毒のためとも、そうでないとも幾つか説はあるようだが)で過ごしたのと同じように、またその哲学的意思を継承したようにみえるフーコーがエイズで他界したような、どこか芝居じみて、からくりに仕組まれたこのキミョウな世界の晩年の末席の末席に坐らせた気分を紅潮させる。とはいえ、稽古場で夢想することといえば、ここにいる俳優女優たちもまた、アト100年とは存在せず、私たちもいずれ考古学の対象となるのかネ、という皮肉な「栄光」の瞬きだけなのだが。

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