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2010年1月16日 (土)

劇、その演技・21

演技者(役者)とその相手役である同じ演技者(役者)における「やりとり」にあって、摩擦がおこるのは、ホンの了解は同じだが、演じ方(演技)がチガウからだ、というもっともな判断はありえない。例を極端にとるならば、テレビにおけるタモリの芸(演技)の優れているところは、その「潔さ」だと思っているが、これはコトバを変えていえば「だれがなんといおうと」というタモリ自身の決意にチガイナイ。つまり、独断といえばそうだし、独断で他人に任せるといってもイイものだ。この姿勢、態度だけは、尊敬に値すると感服している。それは、タモリ自身の持つ「芸」における自信からくるものだが、この自信を披瀝せずに、ただ自らの懐の深さに自足しているところが、タモリのもうひとつの「芸」ともいえる。・・・稽古現場でおこる演技者(役者)どうしの摩擦は前述したように、当事者と同等程度の経歴、経験を持つ第三者があいだに入って調停することで収束することが多い。そんなものはなんの解決でもナイのだが、実時間という時間の矢のもとではありがたいことだ(もちろん皮肉でいっている)。あるとき、ある女優が、プロデュースの舞台の稽古の模様を「私なんかは大女優にみられているもんだから、新人の子がビビっちゃって、私とのかけあいで緊張するのよね。だから、いってあげるのよ、どんどん、やってくればいいのよって」と私にいったことがあるが、その稽古の様子は手に取るように理解出来た。つまりは、この女優の機嫌を損ねると、他の出演者に迷惑をかけるという配慮だけで、その新人は面前の自称大女優と接しているのだ。また、この自称大女優は、自分の懐の深さを誇って(威張って)いるだけだ。こんな稽古場は未だに腐るほどある。これからも腐るほど残っていって、ついには腐ることもなく廃るだけだ。・・・現場(稽古場)の摩擦は演技者(役者)どうしではすまない。スタッフどうし、スタッフと演技者、スタッフと演出家、演出家と演技者、どんな組み合わせも想定出来る。つまりは「ばかばかしい」ことだ。ただ、こんな「ばかばかしい」ことをやりながら、何故、「劇」というものに求心されてしまうのか、私たちはせめて、つねに、その原点にもどらねばならない。

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