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2010年1月22日 (金)

シュレディンガーの猫、への試問

まず、「シュレディンガーの猫」という実験について簡単に述べる。ある一定の時間内に、二分の一の確率で放射線を出す物質があるとする。その放射線を感知すると、青酸カリが入ったビンのフタが開くような仕組みをつくり、これを猫と一緒に同じ箱の中に入れる。一時間後に箱を開ける。猫は生きているのか、死んでいるのか。放射線が出る確率は50%だから、猫は半分死んで、半分生きていると、いわねばならない。しかし、箱を開けたときは、必ず、生きているか死んでいるかのどちらかに決まっている。つまり、開けてみるまではワカラナイということだけを、この実験は示唆している。しかし、ワカラナイのなら、そのような実験はする意味がナイ。あるとき開けたら生きていて、あるとき開けたら死んでいるのだから、この実験には測定結果というものが求められない。実験を重ねていっても、確率は変わらないのだから、同じことだ。ほんとうにこの実験は意味がナイのだろうか。また、ふつうどんな物理学のホンにもあるように、その結果は観測者にゆだねられるしかナイのだろうか。私が考えるのは、この実験は猫が生きているか、死んでいるかという観測結果が重要なのではナイということだ。確率がたとえ、どのように加減しようと、問題は、箱を開けたときの、観測者と猫との関係にしかナイ。このとき、観測者は猫を生かすことも死なすことも出来ない。しかし、眼前の結果に対しては関われるのだ。このとき初めて、観測者と猫は「関係を持つ」ことになる。そんなことは量子力学(の確率論)とは無関係なことだと一蹴されるかも知れないが、量子力学において重要なのは、確率そのものではナイ。確率というのはただの数学的情報だ。その力学がもたらした対象世界について論じられなければ、猫のタマシイは浮かばれまい。

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